ぬえと獅子王(前編)

 

 ――元仁元年(一二二四年)。
 鎌倉の幕府を討ち倒し、再び帝のもとに政治を取り戻さんとした、後鳥羽上皇の挙兵より三年が過ぎていた。焼け落ちた寺社、主を失った公家の邸宅。いまだ戦乱の爪痕生々しいみやこを闊歩するのは、六波羅に詰める御家人たちだ。
 かつての平家の本拠地は、いまや鎌倉の武士たちの居城である。しかし御家人どもが鎌倉の威光をたてにいくら警備の眼を光らせても、みやこの治安は戻らぬままだ。大辻では日ごと寺社の悪僧どもが暴れ、盗人が出、夜ごと廃屋に火が上がった。
 王法地に落ち仏法乱れ、いまやまさに末法の世であると、誰もが言葉をささやき交わす。浄土を求め一念に救いを求める新たな仏道があちこちで起こり、先の見えぬ世を嘆き、これを縋る者も多かった。
「くぁあ……」
 そんなみやこの片隅。戦乱以来焼け落ちたまま放置されている寺の、本堂の屋根で。板葺に寝そべる娘の姿がある。
 歳は十を少し出たところと見えた。欠伸を噛み殺す細い顎に首筋は艶めかしいほどに白く、日焼け痕すら見当たらぬ。肉付きは薄く幼さも多分に残ってはいるものの、娘の容貌は襤褸布と大差ない衣には不似合いにうつくしい。
 墨染めの衣から伸びる脚をぱたりぱたりと揺らし、退屈に頬杖をついて吐息。伸び放題の髪の隙間から、仏頂面でみやこの町を睥睨し、娘は不機嫌に歯を軋らせる。
 娘の名はぬえ。
 かつてこの平安京の夜を睥睨し、その恐るべき鳴き声にて人々を震え上がらせ、帝すら脅かしたという大妖怪、〈鵺〉である。
 近衛帝、二条帝を恐れさせた〈鵺〉は辟邪の武、摂津源氏の長である源三位頼政の矢にてその正体を暴かれ、討たれたと伝えられているが――しかし、ぬえは今もこうしてみやこの片隅に潜んでいる。
 頼政の息子たちは以仁王の挙兵で命を落とし、平家も壇ノ浦で海に沈んだ。藤原の家も衰え、先の帝すら流罪とする混迷の時代である。みやこで彼女の面倒を見ていた化狸も、身内で相争う人間の世に辟易したと言い残し、佐渡へと姿を隠してしまっていた。
 己を知るものも既になく、畏れる者もいないこのみやこに、なぜいまだにとどまり続けているのか――ぬえ自身、その理由は良く分からぬままだ。
 ぬえが暮らすのは右京の廃寺である。往時には功徳で知られた名刹だと言うが、先の乱に端を発した騒動で焼け落ちて以来、近づくものもない。燃え尽きた伽藍の下には、助けを求めて押し寄せた人々の骸がいまだ埋もれたままだ。
 半ば燃え落ちた廃屋は昼なお薄暗い気配に満ち、夜な夜な怪しげな炎が飛び交うのを見た、見るも恐ろしき巨大な影法師が立ち上がるのを見たなどと、恐ろしげな噂もあった。それらはぬえの正体不明の力によるものであったが――それが人の目にどう映ろうと、ぬえにはさして興味もなかった。
 どうせあの時に死んでいた命、もはや誰にも必要とされなくなった己を抱いて、ただ枯れた古木のように、ここでただ移り変わる人の世を見ていられれば、それでよかったのかもしれない。
 ――つい先日までは、そう思っていた。いたはずだったのだ。
「でてこい、化け物!」
 がらり。炭になった梁を蹴り転がし、高い声が響く。大の大人でも近づくのをためらい、怖気づくであろう濃い妖気を前にして、いささかも躊躇を見せない威勢の良い声だ。
 廃寺の中央、黒く煤けた参道を踏み分け、燃え落ちた伽藍の中央にずかずかと踏み入るのは、まだ声変わりもしている様子のない少年である。
 年のころは十に届くかどうか。裾のほつれた紅の衣を纏い、背には煤けた大太刀の鞘を括りつけていた。戦乱絶えぬみやこにあって、逞しく生き延びる戦災孤児の風貌とも見えるが――少しばかり様子が違う。少年の頬は血色も良く生気に漲り、その手足は力強い。
 なによりも目を引くのは、短く刈ったくせの強い髪だ。
 まるで秋に実る稲穂を思わせる、黄金色なのである。そして、意志の強さを感じさせる眉の下に輝くひとみもまた、同じ黄金色。
 整った容貌は、怪しげな廃寺という立地も相まって、彼の出自に疑念を抱かせるに十分であった。いずこの貴人の落胤か、はたまた神仏、妖鬼に類するものか。人目を引く姿を気にする様子もなく、少年は声を張り上げる。
「居るのは分かってるんだ、でてこい!」
(――誰が出ていくかっての)
 燃え残った庫裏の奥、梁の上の暗がりに身を伏せ、ぬえは細い眉をしかめてうんざりと呻く。騒がしいのは御免こうむるというのに、少年は諦める様子なく何度となくぬえを呼ばうのだ。
「どうした化け物! 返事くらいしたらどうだ! それとも怖気づいて逃げ出したのかよ! 大妖怪なんて威張りやがって、見かけ倒しもいいとこだな!!」
 廃寺の中に響く叫びの余韻が、静かに消えてゆく。正体不明に身を包み、なおも沈黙を守るぬえに、少年は大仰に肩をすくめてみせた。
「なんだよ、本当にいないのか? ははあ、さては怖気づきやがったな。情けない奴め。まあ、おまえなんて正体がわかってりゃ何も怖くないもんな。
 ……そうだ、いいこと思いついたぞ。おまえがもう悪さできないように、おまえの正体、みやこ中に言いふらしてやる」
(……あの野郎!)
 とんでもないことを言い出した少年に、ぬえは背を震わせた。畏怖とともに在る妖怪にとって、真実を見極める力というのはなによりの毒である。恐怖と正体不明をその力の根拠とする妖怪〈鵺〉にとって、それは致命のものとなりえた。
 ぬえは舌打ちとともに立ち上がった。地を蹴り、身を潜めていた屋根の梁から半壊した屋根の上に飛び上がる。
「うるさい小僧だな。見逃してやろうと思ってたのに」
「はん、やっぱりいたな、化け物女!」
 してやったりとばかりに笑みを見せる少年。謀られたと分かっていても、ああ言われてしまえばぬえは出てこざるを得ない。みすみす少年の企みに乗ってしまったことに、ぬえは不機嫌に歯を軋らせる。
「さあ、覚悟しやがれ化け物女! 今日こそおまえを討ち滅ぼしてやるぜ!」
 威勢良く叫ぶ少年に、ぬえは鼻で笑って瞼を引き下げた。
「できもしないことを喚くなよ。持ち主もいないお前に何が斬れるってんだ、獅子王」
「馬鹿にするな!」
 激昂とともに少年が背の大太刀に手をかけた。刃渡りだけで三尺五寸余りの大業物、少年の手足ではとても扱い兼ねるはずの代物だが――少年はそれを苦も無く抜き放ってみせる。
 が、それもそのはずだ。少年が構えた太刀の刀身は、半ばほどで折れ欠けていた。彼の無惨な得物を見下ろし、ぬえはけらけらと笑う。
「それみろ、そんなもんでわたしが斬れるもんか」
「やってみなくちゃわからないだろ! 覚悟しろ、鵺!」
 叫び地を駆ける少年が、猿のごとき身のこなしで朽ちた伽藍を駆け上がり、鋭く太刀を振るう。ぬえは背の羽根を広げ、取り出した槍を手にそれを迎え撃つ。
 日に輝く銀光がふたつ、廃寺の中で閃いた。

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 ぬえが、この不思議な邂逅を果たしたのは半年ほど前のことだ。
 化け狸の団三郎と別れて以来、気の向くままに伊豆や坂東にも足を延ばしてみたが、結局のところぬえの棲むのはこの古きみやこであった。
 もともと、ぬえはここで生まれ、みやこの夜に結びついている。戦乱絶えず毎日のように争いが起こる王都であるが、その気になればぬえはいくらでも隠れ潜むことができたのである。
 その日もぬえは、廃寺に近づいた商人を、黒雲とともに正体不明の種で追い払い、その畏れを喰らって腹を満たしていた。
 そんな黄昏時。見事な大太刀の鞘を背負ってやってきた金髪の少年は、力強き双眸で黒雲の中に潜むぬえをはっきりと見定め、仇討だと宣言したのである。
 わが名は獅子王。主、源三位頼政を滅ぼした妖怪鵺を退治に参った、と。
 少年の語るところによると、彼は源三位頼政が帝より拝領した黒漆糸巻拵、号を獅子王とする大太刀の化身であるという。
 一度は頼政に倒されてなお、その怨念をもって摂津源氏を破滅に導いた〈鵺〉の仇討に来たのだと大真面目に語る少年――ぬえがまず最初にしたことは、彼の正気を疑うことであった。
 五条大橋の決闘でもあるまいし、稚児が段平を振り回すなど冗談にしか思えなかった。まして、帝より下賜された源三位の佩刀の化身を語るなどなおさらである。かつての妖怪〈鵺〉の噂を聞きつけた背伸びしがちな少年――あるいは、摂津源氏の郎党、渡辺党の子孫などが、伝承の真偽も知らぬまま武功を果たさんと無謀にも挑んできたのだろうと、そう考えたのだ。
 しかし、いかなる経緯か、少年が手にするのはたしかに頼政が拝領した魔祓いの大太刀であったのだ。その拵えにぬえは見覚えがあったし、頼政の終焉の地となった宇治川の合戦で、獅子王の刃が折れたことも知っている。
 彼の言っていることが出鱈目だとしても、件の獅子王がどうしてこのような場所にあるのか、それを振るう彼が何者であるのか。他に説明がつかぬのも確かなのである。
「さあ、覚悟しやがれ化け物っ!」
 折れた太刀を構え、ぬえの放つ呪詛の飛礫をものともせずに瓦礫を駆け上る獅子王。少年は小柄な体ですばしこく跳ね、宙空のぬえに斬りかからんとするが、空の上のぬえには流石に及ばない。ぬえは妖力を込めた短槍で獅子王の刃筋を打ち払い、背の羽根に絡めて地面に投げ落とす。
「く……ッ」
「なんだ、威勢のいいのは口だけだな?」
「うるせえ!」
 かろうじて受身をとった少年に対し、ぬえは背中の羽根を広げ、その間に妖力を張り巡らせる。蛇頭の青翼と甲殻爪鎌の赤翼、異形にして非対称の翼は、ぬえの力の源だ。
 翼に十分に妖力が行き渡ったのを感じ、ぬえは差し出した指先を狙い澄まして獅子王の頭へと向けた。
 源三位頼政の弓――ぬえが受け継いだ頼政の執念、摂津源氏辟邪の一矢が放たれる。
「うぉ、危ねえっ」
 鋭くこめかみを貫かんとした鏃を、獅子王は折れた太刀の刀身で受け止めた。鏃は跡形もなく消え去る。ぬえが力を練り込んで呪詛を込めた矢を、ただの一合で防いだのである。
「甘くみんなよ、化け物女!」
「ち、そこらのなまくらなら一緒にへし折ってやるのに」
 伝わるところによれば、この国最古の歴史を持つ大和刀工千手院派の鍛えによる一太刀。帝を守護せんと献上され、鵺退治の功績をもって頼政に下賜されたことからも、獅子王に妖を祓い魔を退ける力が備わっているのは間違いない。
「くそ、卑怯者め、降りて来いよっ!」
 妖力を練り上げた礫を太刀の背で打ち払い、地面を転がりながら、獅子王は叫ぶ。
「でかい口叩くなよ、ガキの分際で。頼政の仇を討つんじゃなかったのか?」
「だったら、逃げ回ってないで正々堂々勝負しやがれ!」
「やなこった」
 ぬえは小さく吐息し、胸を反らして獅子王を見下ろす。
「覚悟覚悟って、威勢のいいのは口ばっかりじゃないか。頼政の太刀ってのはそんな軟弱なのかよ、ちびすけ」
「ちびじゃねえ! 俺を子ども扱いするなっ! 年だっておまえなんかよりよっぽど上なんだぞ!」
「はん、ガキじゃないか、どう見たって。自分の成りを見てから言えよ」
「おまえのほうがガキじゃないか! 偉そうに言うなよ、ちんちくりん!」
「……言ったなこの野郎!!」
 売り言葉に買い言葉。ぬえは我を忘れ、地上の獅子王へと打ちかかる。獅子王も折れた刀身をもってこれに応じ、鋼と鋼の打ち合わされる撃音が響いた。
 閃く白刃、地を蹴る足音。打ち合わされる得物から火花が散り、夕闇に沈んだ廃寺を照らす。
 ほどなく、二人は頭に上った血のままに得物も放り棄てて、お互いに掴みかかった。地面を転げ、大人げなく頬を引っ張り、髪を掴み、上へ下へと取っ組み合い。幼い外見そのままの、子供同士の喧嘩そのものだ。
「訂正しろ化け物女! 俺はチビなんかじゃない! 元々は刃渡り三尺五寸五分の――」
「知るかよッ、お前こそ取り消せ! 頼政は褒めてくれたんだぞ! わたしの事っ」
「黙れ、じっちゃんを誑かしやがって、妖怪め!」
「お前こそ黙れ、なまくら!!」
 ぜいぜいと肩を上下させ、馬乗りになった獅子王の額に、ぬえは思い切り頭突きを食らわせた。がつんという衝撃が頭の奥を走り抜け、視界が白く明滅して火花を飛ばす。
「~~…ッってえッ!」
「石頭め…ッ!」
 仰け反った獅子王に、ぬえはもういちど頭突きを食らわせた。二人は絡まり合ったまま、焼け焦げた石段の上を転げ落ちる。
 落下の衝撃にぎしぎしと焼け残った柱が揺れ、炭化した梁ががらがらと崩れた。正体不明の妖怪と、持ち主なくとも喋る太刀。口を開けば喧嘩となり、我を忘れての取っ組み合い。
 この廃寺から人の足が遠のいた理由の一つに、それがあることをぬえは知らない。
 一刻ちかくもそうしていただろうか。随分と粘ったが、ついに獅子王は疲労困憊となって、肩で息をしながら膝をつく。
「くっそお……折れてさえなけりゃおまえなんか」
 対するぬえも満身創痍。地面に突き立てた槍にもたれかかるように、ぜいぜいと息を荒げている。いつしか日はとっぷりと暮れ、廃寺の屋根には大きな月がかかっていた。
「……いい加減に諦めろよ。お前には仇討ちなんて無理だ」
「うるさい! 俺はじっちゃんの仇を討つんだ! おまえを倒して、それで、――それで、っ」
 ――それで。
 地べたに座り込んだまま、拳を地面に叩きつけて悔しがる獅子王。その傍らで、折れた大太刀の刀身がかたかたと震えている。
「俺に、もっと力があれば。もっと自由に動く身体があれば! あの時、じっちゃんを守れたかもしれないのに!! そんな、簡単に諦めきれるもんかっ……!! おまえだって……おまえだってそうだろ! おまえは悔しくないのかよ!! 木ノ下!!」
「…………」
 懐かしい名を呼ばれ、ぬえは反論もできずに口を噤んでしまう。
(――本当に、刀なんだな、こいつ)
 そうなのだ。ぬえも認めざるを得なかった。子供めいた取っ組み合いとは言え、ぬえと掴みあってまともな人間の子供が無事でいられるはずもない。
 怒り、笑い、泣き、傷つけば血を流し、疲れもするし悔しさに震えて叫ぶ。どう見ても人にしか見えないが、確かに彼は、人ではなかった。
 かつて、佐渡の化け狸、団三郎が語っていた。
 年経た器物は、使用者の情念を感じ取って意志を宿すものであるという。団三郎ら化け狸はそうした器物の妖怪を操るのに長けており、彼らの育成に力を注ぎ、化術の助けとして使役するらしい。
 彼もまた、そうして自我を得た器物の怪なのであろう。
 もはや押し返せぬ時流のなか、僅かな兵で平家の大軍勢に立ち向かい、奮戦及ばず命を落とした源三位頼政。獅子王が宇治川でその最期に立ち会っていたというのなら――あの時噛み締めた無力感は、ぬえとて他人事ではない。
 胸の奥、静かに燻っていた身を掻き毟らんばかりの後悔が熱を持つのを感じ、ぬえはそっと、服の上から腹の傷痕に触れる。
「……おい」
 歯を噛み締めて肩を震わせ続ける獅子王に、ぬえはそっと声をかけた。
「やってみなよ」
「……え?」
 こぼれる涙をぬぐい続け、目を赤くした獅子王に、酷い顔してんじゃないとぼやきながら、懐の手布を渡してやる。
「頼政の仇討ちがしたいんだろ。獅子王」
 ぬえは背中の羽根――赤青の左右非対称の翼の内の一本、鱗を生やした蛇の頭を持ち上げた。身構える獅子王の前で、大口を開けた蛇は、げえと煌めく鋼を吐き出す。
 からんと落ちるのは、細く薄く鍛えられた鋼。太刀の切っ先である。
 宇治川の合戦で折れ、失われた、黒漆糸巻拵大太刀・獅子王の片割れ。あの合戦の混乱の中で、ぬえが手にしたまま持ち去ってしまった破片であった。
「こ……これ、おまえ、っ」
「ほら、返してやったぞ。これできちんと一揃いだ。……刃が欠けてるから斬れないなんて、言い訳はさせないからな」
 ぬえは獅子王に背を向け、両手をあげてみせた。背中の羽根は全部仕舞い、無防備な背中をさらす。突然のぬえの心変わりを前に、獅子王は動揺を隠せない。
「お、おい、いいのか? 木ノ下」
「好きにしろよ。わたしの気が変わらないうちにな」
「い、いまさら嘘だとかなしだからな! 騙そうったってそうはいかないぜ!」
「……いいから早くしろっての。やる気ないならやめるからね」
 うんざりとした表情で、ぬえが背中越しに太刀の切っ先をに視線を戻すと、獅子王は素早くそれを掴みとった。
 まだ不信を拭えない様子であったが、獅子王は折れた太刀の本身を構え、真剣な表情でぬえに対峙する。
「――――ッ」
 整った顔にわずかに浮かんだ躊躇を、かぶりとともに振り捨てて。金髪の少年は、きつく逆手に握った本身の切っ先を、力いっぱいぬえの背中へと突き立てた。
 大太刀の刃先が、ざくんと少女の柔肌に食い込むと同時――
「――!?」
 鋭い鋼の先端は、するりとぬえの身体を通り抜けていた。刃先の食い込んだそばから黒い靄が溢れ出し、ぬえの白い肌を取り巻くように覆ってゆく。
 蛇のごとく伸びる黒い靄は、一気に膨れ上がり――そのまま獅子王の顔を取り込まんと広がった。獅子王は飛び退くようにして切っ先を放り出し、眼を丸くして叫ぶ。
「な、なんだよ、これ!」
「これがわたし。これが〈鵺〉さ。いくら斬っても裂いても、わたしは殺せない。それができるのは、頼政の弓だけなんだ」
 黒い靄の中、ぬえはそう言いながら、着物の前をはだけて白い肌をさらす。薄く肋の浮く脇腹に、深く残る腸抉の矢傷。
 平安のみやこの夜に君臨した妖怪を、唯一ただしく見定め、射殺した傷痕。
 ぬえは、源三位頼政の弓によって射抜かれ、その正体と命を暴かれた。
 ゆえに、彼女はそういう妖怪と成ってしまったのだ。
「…………」
 ぬえは細い頤を持ち上げ、ひゅおうと鳴いた。
 紅い唇を震わせ、夜闇に響くはのどよふぬえ鳥の鳴き声。
 ひゅおぅひゅおおぅと悲しみに焦がれ、みやこの夜に繰り返される、籠鳥のこえ。
 ――ああ、その姿、まさに。


 頭は猿、
 胴は狢、
 手足は虎、
 尾は蛇、
 そして鳴き声は虎鶫。


 黒雲を纏い伝承を鎧う正体不明の怪物は、源三位頼政の恨弓でなければ、殺すことはできない。
 ――たとえ、百獣を従える獅子の王とても。

 ひゅぉおおぅ、ひゅぉおおおう。

 白い喉を震わせ、ぬえは空を見上げて鳴く。
 己の切っ先を握り締めたまま、獅子王は、そんな悲しげな鵺の啼き声を、じっと見つめていた。


 <次>