四 頼政辟邪の弓

 

 穏やかに燃える篝火が、九間の弘屋根を照らす。
 分厚い黒雲の隙間からかすかに顔を覗かせる月が、東庭に軋むような夜闇を際立たせていた。
 帝がご政務をおこなう紫宸殿は、四方に廂を持つ荘厳な檜皮葺の大屋殿である。その南の大床、左近衛桜と右近衛橘が枝を広げる広大な庭に、摂津源氏の長、源頼政の姿があった。
 南の弘廂を背に、じっと夜空を睨む彼の背後には時ならぬざわめきが満ちていた。宜陽殿に続く軒廊には、昇殿を許された公卿や殿上人たちが詰めかけ、高欄の上から興奮に目を輝かせている。
 常ならば夕暮れとともに閉ざされる南門には、物々しく薙刀や太刀を佩いて武装をした衛士が警護に立ち、厳しく出入りを取り締まっていた。彼らの間を忙しく走り回っているのは、ことの始終を記録する役目を負った太政官の判官や主典たちだ。
 此度の異変の検分、そして帝をお守りするためという体を取っているが、その実は物見遊山である。頼光以来の辟邪の武として名高き摂津源氏の棟梁、源頼政によるばけもの退治。蚊帳の外の貴族たちにはさぞや見物であろう。
 しかし頼政がこれから挑むのは、ただの虚言。ばけもの退治の真似事なのだ。
「――茶番だ」
 浮かれ気分で賑わう公卿たちの中に雅頼の姿を認め、頼政は誰にも聞こえぬよう陰鬱に呻いた。できるだけ感情を表に出さぬよう、俯いて具足を確かめる。
 頼政の出で立ちは、緑に染めた二重の狩衣に、愛用する重藤の弓と、団三郎より渡された山鳥の尾の尖り矢を収めた矢筒である。
 焚かれた篝火が火の粉をあげ、夜空へと吸い込まれてゆく。夜が深まるにつれ、東よりびょうびょうと風が吹き始め、森がざわざわと揺れていた。刻限は間もなく訪れようとしている。
 帝の御座は北西の清涼殿にあり、いまも主上は夜御座所の中でこの暗き夜を恐れておられるはずであった。それをお守りするのであればここで待つのは本来筋違いであるのだが、『かつての八幡太郎の故事を鑑み』頼政が怪異を討つのはこの紫宸殿であると決まった。倒す前からその場所が定められているという奇妙な事実に、頼政は暗い笑みを覗かせる。
(いや、たとえ茶番であろうと、それで俺が納得できるのなら良いのだ)
 この黒雲、重苦しい風という悪天候に、帝が怯え、お心を悩ませていることは事実である。ばけもの退治の真似事に付き合い、それで帝の塞いだお心が晴れるのであれば、それも立派な武士のつとめであるはずだ。
 そう考えて割り切ろうともした。しかし、できない。
(……どうやら俺は、自分で思っているよりも余程融通の利かぬ堅物だったのだな。この茶番に俺の弓を使わされることが、こうまで忌々しいとは)
 少し前まで、頼政は己がもう少しばかり、小器用に生きることのできる男だろうと思っていた。その自負もあった。かつて頼政自身も義朝に語ったように、いまの摂津源氏の在り方は軍事よりも貴族に偏りつつある。頼政も宮中警護の役目こそあれ、武人よりも歌人としての立場を強くしていた。当代に比類なき弓の使い手と呼ばれながら、武勇によって勲を立てる事など、とうに諦めていたつもりだったというのに。
「皆様方。主上を苦しめ、妖しきばけものを仕留めることができるのは、摂津源氏を率いる古今無類の弓の使い手、源頼政卿を置いて他にありませぬ」
 推挙にあたり、雅頼は頼政に更なる官位や新たな知行国、そして帝や鳥羽院への昇殿も許される四位以上への昇進の口利きと、様々な報奨を約束してきた。それは取りも直さず、この頼政の偽のばけもの退治がそれだけ大きな政治的意味を持つことを示している。
 事実、この一件を引き受けて以来、頼政は一層門院の覚えもめでたく、一族郎党にも様々な便宜が図られていた。
 我等の弓は朝廷に背く夷敵を討つものであり、正体の知れぬばけものを払うなどできぬものであると、一旦は固辞してみせた頼政であったが、それでもなお、勅命であることや義家の故事を引き合いに出して強いられ、ついには承諾せざるを得なかったのである。
「頼政さま!」
 厳粛な場に似合わぬ大声に、頼政は顔を顰める。
 声の主は赤ら顔の若者であった。頬をてからせた皰面はまだ少年と呼んでも差し支えないだろう。薙刀に風羽根の矢を帯びてなお、六尺余りの体躯に、力を有り余らせているのがよく分かる。
 井野早太――通称を猪早太。近江国の郎党である。生まれは遠江といい、半年ほど前より頼政に仕えていた。一度なにかに気を取られると、脇目もふらず目の前の事に突き進む性質で、なるほど猪と渾名されるのに相応しい。
「このような場のお供に、俺を選んでくださって、感激です!」
 この少年は、武家の子どもにありがちな、自らの勇気と鍛錬を特別のものと信じ込む、幼さがいまだ抜けておらぬ気性だった。まだ一度も戦場に出た経験などないというのに、己の活躍を信じて疑わずにいる。
 よく言えば勇猛で一途、まともに評せば時流を見極めることのできぬ単純さ。このばけもの退治が真実と信じて疑わないだろうことは、容易に想像できた。
 頼政が敢えてこの場から腹心たる渡辺党の郎党――授や省を遠ざけたのは、故あってのことだ。今日この夜は、高度な権謀の上に成り立っている。その裏にある秘密を気取られ、万が一にも余計な気を起こす者を立ち入らせるわけにはいかない。まかり間違ってそのような事があれば、頼政は容赦なく彼らを殺さねばならなかった。授も、省も、けしてこのような場で失ってよい人材ではない。
 ゆえに頼政は、猪と渾名されるほどに愚鈍と評判の早太を随身に選んだのであった。
「頼政さま! お任せ下さい、どんな恐ろしいばけものが出てこようと、この早太が突き殺してみせます!」
「ああ、頼むぞ」
 できるだけ投げ槍にならぬように、いかにも信頼しているという態度を装って、頼政は彼に頷き返した。我ながら芝居にもならぬ拙い装いだったが、早太はまったく疑う様子もなく、頼みにされたことに感動を噛み締めているようだった。
 南庭の一円を遠巻きに見守る公卿や判官達を見回し、早太は感極まったように拳を握りしめる。具足の手甲がみしりと音を立てた。
「見てください。これほど多くの者たちが、この怪異を前に我等を頼みにしておる! 腕が鳴りますな、頼政さま!」
「……そうだな」
 早太に素っ気なく答え、頼政はこっそりと吐息した。多少、目鼻が効きさえすれば、周囲を囲む公卿たちの様子でここがどんな場か察するだろう。まことにこの場が正体不明のばけものに脅かされており、噂にあるように危険であるならば、このように見物人が詰めかける事などありえない。ここに集まった者たちは皆、これが茶番であり、見世物であることを承知しているのだ。
 彼等はいわば証人だ。頼政がいかに勇猛にばけものを倒したのかを、尾鰭付けて宮中のそこここで、帝の耳に入るよう語るのだろう。
(何たる悪趣味か)
 滝口武士の矜持すらも見世物とされていることに、頼政は強い不快感を覚えていた。
 この場に集まっているのは皆、藤原家中御門流や美福門院の勢力に属する者たち。つまり、近衛帝と対立する新院崇徳を疎ましく思っている者たちばかりだ。頼政の弓は彼等の武の象徴として、妖しきばけものを討ち払うのである。
 ますます心を沈ませてゆく頼政の隣で、早太は己の役目を疑う様子もなく、絵巻の中のような境遇に心を躍らせている。
 呆れるほど単純なわかものだ。自分の腕が頼みにされているのだと微塵も疑っていない。彼を選んだのは万が一、事態が露見しても扱いやすいだろうと考えてのことだったが――肩から額から湯気を昇らせる早太を見て、頼政は早くも辟易し、後悔しはじめていた。
(もう少し、頭の回るものを選ぶべきだったな。気取られるかもしれぬと恐れすぎたか)
 これが茶番のばけもの退治であることに疑問を抱かせぬため、頼政は手づから早太に短刀を一振り、与えていた。実のところそこらで見繕わせた凡庸な品である。が、早太は頼政の言葉通り、これがばけものを討つために設えた銘作であると信じ込んでいるようだった。
 まだ準備も整っておらぬと言うのに、早太は紫宸殿南庭の前にどんと仁王立ちになり、大きな目を剥いてぎょろぎょろと空を凝視している。よほど血の気が余り切っているのか、ぎりりと握り締めた薙刀の柄がいまにも弾けんばかりに撓んでいた。
(俺にも、このような時分があったのだろうか)
 頼政は想いを巡らせる。
 辟邪の名門、摂津源氏に生まれ、父仲政のもとで物心ついた時には、頼政の毎日は渡辺党の武士たちに囲まれ、ひたすらに修練の繰り返しだった。大江山の鬼を退治した頼光公のように、悪鬼を討ち滅ぼし、帝のお力となるのだと、ひたすらに弓馬の腕を磨いた。
 猛者ぞろいの渡辺党に囲まれてなお頼政は弓を得意とし、長じる頃には誰にも負けぬ弓の使い手となっていた。坂東の武者は常の数倍の強さで張った剛弓を軽々と引き、その矢は人の体すら千切るというが、頼政は精妙かつ鋭い矢をもって、馬上や乱戦の中でも狙い過たず標的を射抜くことを得意とした。
 この時代、戦術と戦略は不可分である。郎党を率いるものとなれば大将同士での一騎討ちも当然とされ、摂津源氏の棟梁として相応しい実力が求められた。頼政も幼き頃はそれを疑いもしなかったはずだ。
 功名を求め、ひたすらに武勇を磨き、戦場で相応しい武者と相見え、力を尽くして戦い勝利をおさめる。そんな華々しい、絵巻のような日々を送ることができると、疑いもせず信じていた頃があったはずだ。しかし、こうして思い返そうとするものの、頼政にはもうそんな幼い頃の自分を見出すことができなかった。
 若くして引退した父に代わり、一門を率いてみやこの政争に身を投じ、激動の中を必死に生き抜いてきた間に、そんな若々しい情熱は摩耗し、擦り切れてしまったのかもしれない。後に残るのはただ、やるせない憤りと落胆だけだ。
 今の世は平和すぎるのだと、頼政は思う。
 いや。無論、争いは毎日のように起きている。しかしそれは絵巻物のように分かり易いものではなく、人の憎悪や執念、嫉妬が醜く絡まり合った、複雑怪奇なしろものだ。吉備津彦の鬼退治のように、俵藤太の大百足退治のように、悪鬼の首を落として、それで全てがめでたしめでたしと収まるものではない。すべての争いは己の利のために起こされ、競争相手の足を引きずり降ろし、栄華を一人占めせとするものである。
 もはやこの世に悪鬼はおらず、藤原の家も、女院達も、寺社の者ですら、人と人が争うことを隠そうともしない。己の邪魔となる相手を敵として滅ぼし、排除するために争いは起こされる。
 頼政達武士ですらその例外ではないのである。坂東での権益を巡り、父為義との対立をなお深める義朝。もはや軍事貴族の一大勢力として朝廷に食い込んだ清盛。そしてまた、摂津源氏を率い、美福門院の私兵となった頼政も、同じことだ。
 いまはこのみやここそがその魔窟。潜む悪鬼とは、頼政を含めた人々自身の欲なのである。ここに居る限り、人は人と争わねばならぬ。あまりにも平和すぎたこの国から、いまやばけものは消え失せ、人は人といがみ合うことでしか生きていられぬのだ。
「早太」
「はい!」
 この純真な若者に何か声をかけてやるべきだろうか。頼政はそう思案する。けれど、己の力が何よりもすぐれ、いかなる困難にも負けないのだと信じている時に、年寄りの言葉はただ耳煩いだけだ。
「あまり、気負い過ぎるなよ」
「大丈夫です!」
 自信たっぷりに腕を握って見せる早太。頼政の意図はやはり伝わっていないようだ。頼政は再度吐息をこぼし、静かに弓を手にして庭の中へと歩み出た。

 


◆ ◆ ◆

 


 ほどなく、東三条より巻き起こった生温い風がひゅうひゅうと唸り、紫宸殿へと押し寄せてきた。うっすらと月が透けていた空には一際黒い雲が湧き起こり、みるみるみやこの空を覆い隠してゆく。人々の間からざわめきが漏れはじめた。
(刻限だな)
 ちらと殿上に視線を巡らせれば、雅頼が小さく頷いて合図を送る。弁官たちの指示で南庭を照らす篝火が増やされ、隠れた月の灯りを埋めるように火の粉を上げた。
 びょうと風が吹き付ける。木々がざわざわと枝を擦る音に混じり、いずこの森からかひょおぅ、ひゅおおおぅと響く虎鶫の鳴き声が届いた。
「こ、これは……」
「ぉう……あの声、聞こえるか……?」
「聞こえる、聞こえるぞ……なんじゃ、あの声は……」
 ざわめく見物人たちのどよめきが頼政を苛立たせた。軽い気持ちで押しかけながら、いざ何かが起こりそうとなればたちまち恐れを露わにする。既にすっかり怯えて浮足立っている様子の公卿まで見え、まったく情けなくなるばかりだ。
「ぬう、いよいよ出おったな、ばけもの!」
 一方、早太は怖気づくどころか眼をらんらんと輝かせ、薙刀を構えいまかいまかとばけものが飛びだしてくるのを待ちかまえている。主である頼政を押しのけ、どかどかと庭を歩きまわるさまは、猛った猪そのものである。
 まったく、誰が呼んだか猪早太とは良くしたものだ。その気迫は戦場であれば弱音を吐く初陣のものたちを奮い立たせただろう。そうして、そのまま気勢を上げ敵陣に打ちかかり――馬上の将に挑んで、そのまま首を刎ねられた同じような若者たちを、頼政は多く知っていた。
 頼政を無視して南殿の前に陣取る早太に、頼政は声をかけた。
「下がっておれ、早太」
「下がりませぬ! 頼政さまは見ていてください、私めがこのばけもの、討ち取ってごらんにいれます!」
(それでは困るのだ馬鹿者が……!)
 まったくこちらの意図を介さない早太に内心で悪罵をぶつけたくなるのを堪え、頼政は無表情を取り繕う。
 この場の段取りは、全て頼政がばけものを射抜くことで進むようになっている。早太の立場はあくまで随身、頼政の傍について補佐をするためのものだ。それを彼はまるで理解していない。
 目上の勲功を第一に考える、郎党として最低限の役割すら把握していないらしかった。恐ろしく単純でまわりの見えぬ彼のことだ。頼政の立場などわからず、己が一人でばけものを討ちとってしまおうと考えているに違いない。
 軒廊より、雅頼が珍しく笑み以外の表情をつくって頼政を見た。この分からず屋の郎党をどうにかしろということだろう。
(泣きたいのは俺だぞ、雅頼よ)
 今回の茶番は摂津源氏の棟梁という頼政の家格をもとに仕組まれたものだ。そこで出自もあやしき郎党が紫宸殿に土足で跳び上がって踏み荒らしたなどとなれば、もはや渡辺党どころか源氏全体の醜聞となりかねない。ばけもの退治などという芝居は霞んでしまう。
(しかし、確かに俺が愚かだった。……まさかここまで聞き分けのない若者とはな)
 早太にきちんと言い含めることができなかったのは悔いても仕方がないが、ここまで頭の足りぬ男とは思いもしなかった。いみじくも郎党として仕えているのだ、戦場の仕手くらいは弁えているのだと考えていたが――早太は主人を蔑ろにしてでも武勲を立てんと逸る猪そのものである。
 後で徹底的に教え込まねばならぬ――そう思い、頼政は強く早太を叱責した。
「控えろ早太! 死にたいのか!」
「命など惜しくありませぬ!」
「容易く死ぬなど申すな。無謀を勇気と履き違えてはならぬ! お前はいたずらに血を流して、帝のお住まいである御庭を汚すつもりか! 辟邪の滝口武士の役目を何と心得る!」
 言うが早いか頼政は早太の襟を掴み、ぐいと庭に引きずり倒した。どさりと投げ飛ばされた早太に公卿たちのどよめきが上がる。それに背を向け、頼政は手筈通りに紫宸殿の南面、張り出した大廂を見上げる。
「――――」
 頼政の背には、団三郎より渡された山鳥の尖り矢二本を修めた矢筒がある。空穂(狩猟用の矢筒)を纏う事は許されなかったため、頼政が持つのはこの二矢だけだ。
 もし一の矢をし損じても、直ぐさまに二の矢を放って仕留めるという心構えである。そも、戦場において持ち込む矢の数を限るなどいうのは馬鹿な話であるのだが――これも雅頼の指示であった。いかな頼政とて帝の御前に出るのだ、その武装は仔細に渡って検められている。万が一にも、内裏に持ち込むものに呪詛などが絡み付いていてはならぬからだ。
 頼政の主張でぎりぎり許されたのが、この矢、二本だった。
『なんと弱気なことか……帝の推薦を受けられた頼政殿が、二の矢の故事を知らぬとも思えませぬがなあ』
 居合わせたある公卿は、頼政の姿を見てそう皮肉った。二度の機会をもつことで、一度目の機会を外しても良いという気の緩みが生じ、事態を悪化させるというつまらない戒めである。正体の妖しきばけものとて、矢を外すなどということは摂津源氏の体面からも許されぬというわけだ。頼政に期待されているのは、八幡太郎義家と同じ、英雄としての振る舞いなのである。
 頼政に言わせれば、戦を知らぬものの戯言であった。
 手数は、策は、兵力は、使いこなす技量さえ持つのなら、用意すればするほどいい。それをつまらぬ矜持で見栄を張るから、易く敗北するのだ。
 しかし彼らの無理解はそれを許さず、二の矢を持ち込んだ事自体、ばけもの退治の立場としては眉を潜められるような状況であった。
(さて、射損じたのならば――雅頼殿の頸の骨を射抜き、俺も死をもって詫びる積りだったとでも弁明をするしかないだろうな)
 茶番であろうとも、この一矢に一門の行く末が掛かっていることは確かなのだ。仕損じることは許されない。丹田に活を入れ直し、頼政は紫宸殿の屋根を睨みつけた。
 お誂え向きに、ますます激しくなる風を恐れ、公卿たちは軒廊の奥に引っ込んで身を寄せ合いながら遠目に様子を窺っていた。全ては段取り通りに進んでいる。黒雲と風は刻限通りに吹き始めた。あとは頃合いを見て頼政が屋根の上にばけものを見つけ、そこに矢を放つ。見物人の中には雅頼が手配した者たち混じって居り、彼等がばけものを見た、頼政がそれを仕留めたと騒ぐことになっていた。
 いるはずもないばけものを、こうして退治する算段なのである。
「…………む、?」
 檜皮葺の大屋根の上、渦巻く黒雲を見つめていた頼政は、ふと眉をしかめた。
 はじめは見間違いか、と思った。だが、違う。
 すでに黒雲に隠れて月のない空、焚かれた篝火の中に夜目を利かせて眼を凝らす。
(気の迷いではない)
 ――ゆらり。帝の御座所を見下ろす空、紫宸殿の屋根の上に、這いつくばるような影がある。
 間違いなく、何かがいる。鳥ではない。しかし、獣とも見えぬ。小さな黒い影は四肢を強張らせて身を丸め、檜屋根にじっとしがみ付いている。
 ぎらりと――輝く目が頼政を見た。
 示し合わせたかのように、ひょうひょうと不気味な鳴き声が響いた。風に煽られた虎鶫の声が、御殿を震わせる。
「出、出たぁ!」
 頓狂な叫び声が上がる。吹き付ける風と虎鶫の恐ろしい鳴き声に、弁官の一人が耐えかねたように逃げ出したのだ。手にしていた書簡を投げ出し、一目散に走り出す彼につられて、あちこちから叫び声が上がる。押し合う彼らの背にぶつかり、篝火がゆらゆらと揺れる。
「いるぞ、あそこだ!」
「ばけもの、ばけものだ!」
 一旦起きた混乱は容易には収まらない。たちまち恐慌が辺りを満たしてゆく。もともと、野次馬気分で押し掛けた者たちだ。しっかりと結末を見届けてやろうと心を据えていた者はそう多くなかったことが災いした。腰を抜かすもの、逃げ出すもの、悲鳴を上げるもの、殿のまわりはにわかに騒然となる。
 そんな中でも頼政は己を失うことなく、しっかと地を踏み締めて弓を構え、矢筒より抜いた山鳥の尖り矢を番えた。視界の先に屋根上の黒い影を捉え、ぎりり、と左手に込められた弓の撓み、弦の軋みが耳を擦る。
 魔を討つ鏃の先は、御座所の上。黒雲と共に張り付いた黒い影。
「南無八幡――」
 何度となく繰り返された八幡太郎の故事に倣うように、頼政は自然と八幡菩薩への加護を願っていた。研ぎ澄まされた意識の中、引き絞った弓の先に、射抜くべき標的をしかと見定める。
(あれは――)
 良く良く見れば、屋根上のあやしき影は随分と小さいものだった。頼政の半分ほどしかない背丈の、小さな、小さな――手足。
 頼政は驚愕に両の目を見開いた。ばけものなどではない。あれは、あそこにいるのは、
(童ではないか!)
 薄汚れ、今にも泣き出さんばかりに震えているが、間違いがない。あれはばけものではない。人だ。黒雲のように揺らめいているのは、襤褸めいて汚れた黒い衣だ。四肢の強張りは漲る力ではなく、怯えて必死にしがみつくゆえの身震い。ちらと見える白いものは爪ではなく剥き出しの手足。ぎらぎらと輝いているのは、恐怖に見開いた二つの瞳だ!
 頼政は咄嗟に視線だけをずらし、軒廊の雅頼を見る。
 怯える公卿たちの中、雅頼だけはしっかと頼政を見ていた。穏やかな、線ばかりで構成されたまるこい顔の頬笑みは、万事抜かりなしと――そのように雄弁に語っていた。
(――雅頼……っ!)
 頼政は全てを察した。これも雅頼の采配なのだ。いもしないばけもの退治に、より確実な公算を付けるために。万が一にも疑いを差し挟ませぬために、その標的に生きた人の子を用いたのだ。
 そうだ。ばけものを射抜いても、血が残らぬでは、死骸が残らぬではその証にならぬ。だからと言って獣を使おうにも、屋根の上に括りつけることもできぬし、そもそも矢を向けられ黙って射られるのを待っている獣などいない。警備の厳しい殿中で、あらかじめ殺しておいた死骸を使うこともできぬだろう。
 ではどうするか? 怯えと畏れで満足に動けぬ幼子を用いるのだ。外見などに拘る必要はない。ばけものが哀れを誘うために幼い娘の姿に変じたのだとでも、方便を立てればいいのだ。
 恋多きかの左少弁の元には多くの色子が抱えられていると聞く。どこかの娘に産ませた、使い捨ての童だろう。頼政にそのことを告げなかったのは、いかな弓の名手とて淡々とばけものを討つのは不自然だとの思いから、この茶番に信憑性を持たせるためか。
 だが、いまの頼政にとってこれはあまりにも予想外過ぎた。鏃の先端がぶれ、視界が汗に滲む。番えた矢は獣の腸を抉り引き裂いて殺すための鋭い鋒と尖る逆刺を備えた腸抉の狩矢だ。断じて人に射るようなものではない。頼政は動揺を押し隠すためぎりりと歯を噛み締め、弦をさらにきつく引き絞った。
 苦しむことのないよう、せめて一息に。狙うは童の頭だ。
 じっと屋根上のばけものとにらみ合い動かぬ頼政に、周囲は怯えながらも固唾を飲んで見守っている。
(……射ねば、ならぬ)
 たとえ何が標的であろうと、頼政の弓はそれを討つ。それが彼の務めであった。
 この一矢には頼政の体面だけではない。仲綱をはじめとした息子たちや一門、郎党たちの行く末も懸かっているのだ。帝の命を受けた身、辟邪の武にばけもの退治が叶わぬでは、もはや頼政に出世の道も、みやこでの居場所も残されていない。それどころか、摂津源氏の重鎮である頼政がこの弓をしくじれば、義朝や他の源氏の者たちにもその不名誉は振りかかるだろう。
 部門の誉れ、源氏の弓――頼政の肩にはそんな名前の魔物がしがみ付いていた。
 じわりと脂汗が吹き出し、眼に入る。歪む視界、軋む弓。引き絞った弦がきりきりと軋み、もはや猶予なしと告げる。
「頼政さまぁ!」
 早太が声を振り絞って叫ぶ。あの若者は、頼政がいまにも屋根上から襲いかからんとしている凶暴なばけものと、僅かな隙も見せぬよう対峙しているようにでも映っているのだろう。
 だが違う。怯え震えている無力な童と、それを射殺すのを躊躇う頼政がいるだけだ。
(……せめて、一息に)
 狙うのは童の胸元、細い頸だ。巨躯の獣をも容易く射殺す狩矢であれば、一射でその首を刎ね飛ばし、息の根を止めることができるだろう。
「南無八幡大菩薩――!」
 膠着を破ったのは頼政の大音声であった。弓というのは留め置くものができぬものだ。一度引けば、後は放たねばならぬ。そしてこの祈りの声は、果たして何を思って放たれたものか。弓弦がぱあんと鳴り響く中、びょうと放たれた矢は、夜闇を鋭く裂き貫いて――
(しまった……!)
 射た刹那、頼政は手ごたえのなさをはっきりと感じ取っていた。懊悩と迷いが手元を狂わせたか、童の生きたいという想いのなせる奇跡の業か、魔を孕んだ風が悪戯に矢を曲げたか。頼政の弓は、射抜くべき標的を外していたのである。
 魔払いの山鳥の矢は頭を抱えうずくまる童の頭を大きく外れ、その脇腹を裂いて、紫宸殿の檜屋根に突き立った。
「おお……っ!?」
 事態を見守っていた公卿たちから、一斉にどよめきが上がる。離れた軒廊の上に居た彼等の中に何が起きたのかを正確に把握していた者はいなかったが、頼政が矢を放っても、ばけものの叫びが聞こえなかったことから、何かの異常があったのを察したのである。
 その場で誰よりも呆然としていたのも、頼政であった。
「………ぁ、………ぐっ」
 屋根上の幼子は、脇腹を抉るように刺さった矢を掴み、苦悶の呻きをあげていた。黒い衣を引きずり、屋根を這って逃げようとする。動くということは生きており、であるならば、何かを喋ることができるはずだった。それはつまり、事が露見する可能性を残しているのである。
 これは明らかに、頼政の失態であった。
 一矢を損じたのであるから、今すぐにでももう一本の矢を番え、放たねばならぬ。だが頼政はその事も忘れていた。
「頼政卿……!」
 動揺していたのは雅頼も同じだった。まさかあの源頼政が、狙いを誤るなどということは想像もしていなかったのだ。武士としての心根などまるで知らぬ雅頼だが、頼政の腕は信頼していた。重責を負ってなおこのような大舞台で失態を犯すような者ではない事を、誰よりもよく理解していた。万一のことがあろうとも、二矢目を持って抜かりなくばけものの頭を射抜き、絶命させて見せるであろうと信じていたのである。
 軒廊の欄干へと身を乗り出した雅頼が、絶望と共に紫宸殿の屋根を見上げたその時である。
 ――ずるり、と。
 怯えに身体が竦んだか、腹に突き刺さった矢の痛みに耐えかねたか。あるいは単に足を滑らせたか。屋根上で数度身を竦ませた童は、支えを失って大屋根を滑りだしたのだ。
 檜皮葺の屋根はひとたび滑り出した童の体を支えることなく、たちまち転がる小さな身体は、廂の上から飛び出し、かすかな悲鳴と共に紫宸殿の屋根から落ちる。
 あまりにもあっけない、小さな音を立てて、童の体躯が固い地面にぶつかり、跳ねた。
「――やった! み、見事、見事なり、頼政卿!」
 軒廊の上であることも忘れ、雅頼は咄嗟に叫んでいた。
 あの高さから落ちれば、命は永らえても助かるまい。どうせこの暗闇だ、矢がどこにどう当たったかどうかなど分かりはしない。傷が浅かろうと、落ちる時に躯から抜け落ちてしまったとでもどうとでも言い訳が付く。
 ばけものは確かに、頼政の矢に射殺されたのだ。これでそう格好がつく。一度は呆然となりながらも、一瞬のうちにそこまで打算を巡らせ、確信しての叫びだった。
 一方、頼政は完全に放心していた。落ちてきたばけものの生死を確かめ、止めを刺さねばならぬことも忘れて。まるで阿呆のように、ただ、屋根を転げ落ちる童の姿を見ていた。
 小さな身体が檜皮の上を跳ね、しがみ付こうともがくも空しく、宙を舞う。童の年頃はちょうど、ことし十二になる頼政の娘と同じくらいだ。その、幼い子供が屋根を転げ落ち、頭から地面に叩き付けられる、一部始終を。頼政は呆然と見つめていた。
 雅頼が思い描いていたように、仕留め損ねたことを気付かれぬと安堵していたわけでもない。
 ただただ、強い後悔があっただけだった。
「此れは一体何事か。なんとしたことか、この騒ぎは――」
 渾然となる南庭に、突如のざわめきが続く。宜陽殿の方より重々しい声が響いたのだ。
 人垣がばっと左右に割れ、そこから姿を現したのは誰あろう、新院崇徳の覚えめでたき宇治左大臣、〝悪左府〟藤原頼長である。膨大な和漢の書に通じて学識の高さを賞賛されて「日本一の大学生」と呼ばれ、内覧の地位まで得、いまや兄である関白藤原忠通に代わって藤原氏の長たらんとしている彼は、頼政の仕える美福門院と対立する政敵であった。
「な……!?」
 突然の乱入者の顔に、雅頼は今度こそ青褪めた。今日この場は雅頼が入念な準備のもとに整えたのである。邪魔が入ることなど無いはずだったのだ。衛士も弁官たちも息のかかったものを集め、事前に許した者以外を立ち入らせぬように言い含めていた筈である。それがなぜ、いったい、どうして――。混乱の極みに達した雅頼は、いよいよ最悪の事態を覚悟する。
 実のところこの日、頼長が内裏を訪れたのは全くの偶然であった。執政の座についたばかりの頼長は意欲に燃え、学術の再興につとめ、弛緩した政治の刷新を目指していた。聖徳太子の十七条憲法を規範に、乱れた天下を撥乱反正すると豪語する彼は、今日も寝る間を惜しんでひとり政務に励んでいたのである。
「こ、これは、宇治左大臣どの……このような夜半に、どうしてこちらに……」
「其れは我が聞きたいことである。説明せよ。この様に内裏に集まり、そちらは何をしていたのか」
 自他ともに厳しく、綱紀の乱れには特に過敏な頼長である。悪左府の名の通り、苛烈な気性を見せて公卿たちと問答を始める。
 そんな中、小さな呻き声が頼政の心を引き戻した。
「ぅ……、ぁ」
 声は地面に落ちた童からだ。地面を大量の血で汚しながら、童は苦悶を上げて身を起こそうともがいていた。
(――まだ、息がある)
 頼政は思わずその場を飛び出していた。篝火が爆ぜ、ひときわ大きく燃え上がった炎が、闇の中に小さな身体を映し出した。
 赤く血に塗れた童は、顔じゅうの穴から血をこぼしていた。少しでもばけものらしく見せるためか。擦り切れた墨染の黒い衣を着せられただけの童――否、娘である。
 露わになった衣の下から覗く、細い肢体は柔らかく、泥に汚れてなお、白い。艶めかしい白い脚先は、土を踏んだ事もないように清らかだ。
 まだ娘が生きている――その事実に、雅頼が悲痛なうめき声を絞り出し、頭を抱える。最悪の出来事が続いてしまった。かの悪左府頼長がこの事態を看過する筈がない。ただちにあたりを検分し、策謀を看破して、内裏で娘を射殺すなどと一体何の企みかと、激しく関係者を糾弾するに違いなかった。
 万一娘が命をとどめ、口をきけば全てが露見し、薄雲中納言ともども雅頼も身の破滅である。それどころか、彼らの後ろ盾となった黒幕たちまでその地位は危うい。
「ばけものめ! まだ息が有るかぁ!」
 その時である。凍り付いた場の空気、まるで意に介さず飛び出した巨漢がいた。早太だ。字の通り、猪のごとくまっすぐに、若い郎党は地面に転がる娘の元へと走った。薙刀は邪魔だとばかりに放り捨て、頼政を肩で突き飛ばし、眼前の獲物に鼻息荒く、目をらんらんと輝かせて腰から短刀を引き抜く。
 篝火の中に、ぎらりと白刃が閃いた。
「みやこを騒がす、おぞましきばけものめが! 俺が仕留めてくれるッ!」
「………ゥ、ぁ」
 呻く娘は、焦点の合わぬ目で折った脚を引きずって逃げようとするが、早太はまるで意に介さない。地面に転がるその身体を引き寄せて、振り上げた短刀を突き立てる。
「止め――」
「うぉおオオオオオオオオオ!!」
 止めろ、という、弱々しい頼政の静止の叫びは、早太の雄叫びに掻き消された。まるで大猿のような遠吠えが、びりびりと内裏を揺らす。
 鈍い音がして、娘の腿に短刀が根元まで埋まる。地面を這って逃げようとした娘の右脚から下がねじり折るように斬り飛ばされ、くるくると宙を舞った。
「ぁ………」
 白い脚の断面から桃色の肉と白い脂肪がはみ出し、一瞬遅れて血が溢れだす。
 呆然と、膝から下のなくなった脚を見下ろし、娘が表情をゆがませる。その身体に馬乗りになって、早太は頼政が与えた短刀でもって、娘の胸を骨ごとま二つに断ち割っていた。
 がらぁん、と早太の投げ出した薙刀が地面に転がる。
「捕まえたぞ! 逃がさぬ、逃がさぬぞ、ばけものめ!」
 早太は満面の笑みと共に、もはや這う事も出来ぬ娘の身体を地面にねじ伏せた。髪を思い切り掴み、血まみれの短刀を恐怖に竦む娘の首へと押し当てる。
 ぷつり、と白い首に血が浮かんだと見えた次の瞬間には、早太は躊躇なく娘の頸を跳ねていた。千切れた首から血が噴き出し、ごぼごぼと、気道から漏れ出る空気がそれを泡立てる。
 白目を剥いて動かなくなった娘の頸を、振り上げ、早太は吠える。
「ォォオオオオオオオオオオオオ!!」
 その雄叫びは、歓喜であった。帝を脅かし、みやこを襲った恐るべきばけものの首級をあげた――その感動に早太は涙さえ流して喜んでいたのである。
 今まさに、彼は狂乱の神話の中にいる。早太が殺しているのは無力で哀れな童女ではなく、みやこを騒がせた恐るべきばけものであるのだ。
 早太はなおも何度も何度も短刀の刃を返し、娘の身体を切りつける。足に続いて腕も切り落とし、胴を二つに割って心臓に白刃を付き立てる。続けて下肢を裂き、その胎を切り刻んで検めた。万が一、ばけものの仔が潜んでいてはならぬからとでもいうのだろう。
「やった! やりましたぞ、頼政様!」
 娘の身体が九つに千切れるまでに存分に斬り刻むと、早太は敬愛する主人より拝領した血塗られた短刀と、落とした娘の首を掲げて破顔する。返り血を浴びる若者の凄惨な笑顔に、公卿たちが顔をそむけた。
 ぽた、ぽた、と滴る短刀を掲げ、早太は頼政の元に駆け戻る。
「頼政さま! やりましたぞ! 確かにみやこを騒がすばけもの、討ち取りました!」
 返り血を浴びた身体を篝火の中に浮かび上がらせ、肩を大きく上下させ、ふいごのように白い息を吐き出して。満面の笑顔で早太は叫ぶ。
 まさか正気を失ってしまったのではないか――頼政がそう疑いたくなるほど、この若者は誇らしげだ。ただの無力な娘を殺したことが、この世一番の大業だとでもいうように。
「お……おお! 見事、見事、頼政!」
 早太の様子を見て、雅頼がすぐさま叫び、庭へと飛び出した。彼にとっても千載一遇の賭けであったろう。
 今の機会を逃しては、もはや全てを有耶無耶にする手段はない。
「みごとだ頼政! 良くぞ、この恐ろしきばけものを討ち取った! 辟邪の武、摂津源氏の証、しかとここに見たぞ!」
 己でも何度となく声を上げながら、雅頼はしきりに回りの者たちに合図を送る。最初、あまりの事に呆けていた公卿たちも、やがてそれに気付いて、口々に歓声をあげはじめた。
「な、なんと――何と恐ろしい、恐ろしいばけものであったか! それを、み、見事一矢にて射殺すとは――!」
「そ、そうじゃ、なんと、禍々しい……見よ、その恐ろしい手足――虎のようではないか!」
「うむ、なれば身体は、巨きな狢のごとく――」
「あの恐ろしい口はどうじゃ! 人とも猿ともつかぬ不気味な顔をしておるではないか……」
「お、尾は蛇! 蛇であるぞ!」
 口々に、皆が、見えてもいなかった恐ろしいばけものの姿を叫び立てる。碌に打ち合わせも出来ていないためか、出鱈目に述べられるばけものの姿は、頭は猿、手足は虎、尾は蛇と、まったくちぐはぐで、とても生き物の姿とは思えぬものであった。
 息を荒げ、娘の死骸を抱えて仁王立ちとなる早太の元に、ぱっと雑式たちが駆け寄り、娘の頸と身体を奪うように筵に包んだ。
 同時に雅頼も頼長の元へと駆け戻り、面食らった様子の悪左府の視線を遮る。
「さあ、左府どの、どうぞこちらへ……!」
「待て。話は終わっておらぬぞ。そちらは何をしておるのかと聞いておる。此れは何の騒ぎであるか。答えよ、よもや怪しげな企みではあるまいな? 我の前でそのような――」
「さあ、さあさあ! すぐにご説明いたします、ともあれ今はお早くここを離れましょうぞ! ここは危のう御座います。確かに仕留めましたが、あのような恐ろしいばけもの、いつ何時呪詛を吐いて再び暴れるとも限りませぬ! さあ、お早く、お早くこちらへ!」
 雅頼と公卿たちに囲まれ、困惑の中遠ざけられてゆく頼長。
 その間も、まるで、報奨を賜った時のように。
 誇らしげに娘の頭を掲げ、下ろそうとしない早太。
 その手に下げられた哀れな娘の頸は、事切れたまま、じいっと頼政を睨んでいる。
 斬り裂かれた眼窩からこぼれ落ちかけた眼球が、ぴくりと――動いたような気がした。

 

 

 <次>