十四 渡辺競

 

 近衛河原より鴨川を挟んだ南、六波羅。かつて洛内の葬地鳥辺野として知られた荒れ地は、平忠盛によってその基礎が築かれ、いまや平家隆盛の象徴ともなったかれらの拠点である。鴨川の東岸、みやこより伊勢や東国へと続く街道の出口にあたる五条から七条の区画には、いまや三千二百余りの邸宅がひしめき、六波羅館などと総称されていた。
 惣領邸宅の泉殿を中心に広がる街並みには、大陸の流行を取り入れた装飾も多くみられる。福原の港よりもたらされたものであろう。その威容は桓武帝以来の伊勢平氏の系譜を伝え、まさに平家によるもう一つのみやこと言えた。
 周囲には塀が巡らされ、洛内へと繋がる大橋には堅固な門が構えられ、警護の兵がずらりと並ぶ。軍事貴族平氏が辿った闘争の歴史を示すかのように、その防護は厳重である。
 事実、六波羅はこれまでに幾度となく戦場となり、侵攻や戦乱を食い止めていた。平治の乱においては二条帝を匿って臨時の御所となし、義朝らが率いる源氏の精鋭を退けたように、有事には街一つがそのまま要塞へと変貌するのである。
 いまや六波羅からは炊事の煙が上がり、有事を知らせる赤旗が翻っていた。平家の象徴である赤とは、彼ら一門の驕りがもたらした騒乱で流れた血の色であろうか。
 先の十五日、三条高倉の御所を脱した以仁王は、北の園城寺へと逃れていた。平家転覆の企みは世に暴かれ、六波羅は騒然となりながらもその準備を着々と進めていたのである。
 かの寺を攻める軍は既に組織され、動員された兵が塀の外にまでひしめいていた。彼らは揃い、数日のうちにも園城寺への攻め手にかかるだろう。
 あの軍勢の中からぬえを拾い出すのだ。身震いする己の頬を張って、団三郎は気合を入れ直す。場所は平家の総本拠。敵は平家の軍勢五千。対するは我が身たったひとつ。
「相手にとって不足なしじゃ。
 ――団三郎狸、一世一代の大化術。とくとご覧あれ」
 身の内に満ちる熱気が、白い呼気となって噛み締めた牙の隙間から漏れる。
 独白と共に、団三郎は身を翻した。

 


◆ ◆ ◆

 


 百と五十年あまりを生きた化け狸とはいえ、団三郎は妖獣の中ではまだまだ若輩である。故郷の四国には齢五百を超える古老がごろごろしていたし、彼女が名代を勤める伊予松山の狗神刑部に至っては、少なくとも七百と四十を数える古狸だ。道後の温泉でかの聖徳王すら謀ったというその伝説は、畏怖と共になお語り継がれている。
 獣性を脱するのに十年、智慧を付け、人の言葉を解し生き延びるのに二十年。月を浴びて続けて不足なく人の姿をとれるようになるまでさらに二十年を要した。そうして人の世に混じり、ようやく化け狸として独り立ちできたのは七十を過ぎてからである。
 これは化け狸の中では際立って遅い部類であった。四国の狸達の中には、憚ることなく団三郎を指して落ちこぼれと呼ぶものも居た。それに対する反発を力に変え、団三郎は歯を食いしばって化術を磨き続けたのである。
 しかしそうして身に付けた化術も、森羅万象を自在に化かす四国の古老たちに比べればまだまだ拙いものでしかない。いかに勝ち戦を前に慢心しているといえども、戦を前に気を張り詰めさせている平家郎党を前に、どこまで通じるのかは分からなかった。
 あるいは、団三郎が他の狸達のように故郷の四国で育っていれば違ったのかもしれぬ。師と仰ぐに相応しい古老狸も多く、妖力、化け術を磨く事もたやすかっただろう。が――団三郎はそれを良しとしなかった。一人故郷を離れ、人に混じり、人のように暮らした。
 やがて彼女がみやこに人脈を築き、一端の商いをするようになったのはそれから間もなくである。
(――さて)
 そうして、己の本分を自覚していたからこそ、団三郎は真正面から本性も露わに六波羅になだれ込むような愚を犯しはしなかった。
 兵は詭道なり。古き人の世の兵法家はそう説いたとされるが、それは狸にも同じだった。寡兵をもって大群を翻弄し、虚実を織り交ぜて謀ることこそ、化生狸の本懐である。
 鴨川の岸より舞い戻った団三郎は、無人となった近衛河原の屋敷に戻り、懐から取り出した楡の葉を頭に載せてたんと地を蹴った。その場を宙返りすればあたりには白い煙が立ち込め、彼女の姿はたちまち精悍な若武者のものへと変じていた。
 以前に頼政の配下と偽って内裏に出入りしていた、摂津渡辺党の若者の姿である。これは団三郎がみやこに持つ顔の一つであり、この姿の時は渡辺競滝口という名を名乗ることにしていた。
 そして競に化けた団三郎、なにをするかと思えばそのまま納屋へと入り込んで身を横たえ、ぐうぐうと大鼾をかき始めたのである。争乱迫るみやこ、敵陣である六波羅の目と鼻の先で、なんとも大胆な行いであった。
 狸寝入りなどという言葉もあるが、これは本当に眠っている。そも、化術の大家たる狸が己を化かせずにどうして猜疑にかられる人を化かすことができようか。
 近衛河原の屋敷に平家の郎党たちが押し寄せてきたのはそれから間もなくであった。源三位入道決起の報せを聞いて、ただちにその本拠を押さえに掛かったのであろう。彼等はもぬけの殻となった頼政の屋敷を見回し、卑怯もの、朝廷に弓引く反逆者と口々に騒いでいた。
 彼らは邸内をくまなく探しまわり、やがて納屋の中で大の字になって寝こけている若者を見つけ出した。緊迫する中でなんとも呑気に高鼾をあげる彼に不審を抱きつつも、それを取り囲んで声をかける。
「おい、貴様、おい! 起きぬか!」
 郎党の一人がずいぶんと深く眠っている若者の肩を掴み、激しく揺さぶった。そこでようやく団三郎、大欠伸をしつつ起き上がり、周りを見て青ざめてみせる。
「こ、これは如何に。おぬしらは誰じゃ、みなはどこへ行った?!」
「如何にではない、我らは宗盛様の郎党よ。おぬしこそ何故こんな場所におる」
 詰め寄る郎党達を眺め、団三郎は視界に収まる攻め手の数を把握した。
(ひい、ふう……八人か。もう少し多いと思ったがの)
「ええい、怪しいやつ、名を名乗れ、名を」
「競。渡辺競じゃ」
「……渡辺、摂津の渡辺党か。うぬ、貴様、寝返った頼政の手勢ではないか!」
 たちまち取り囲まれて引きずり出され、土の上にねじ伏せられる団三郎。適当に力を込め、暴れるふりをしてから苦しげに声を上げてみせた。
「は、離せ! ええい、そんなことをせぬでも逃げぬ! 離せ!」
「信用なるものか。なぜこのようなところで寝こけておる」
「なにも何故も、一寝入りしておったらこの有様じゃ。昨日、丸一昼夜の勤めを終えて一日ぶりに飯を腹いっぱい食って、休んでいただけよ!」
「怪しい奴、何故、納屋の中などで寝ておった」
「屋敷の中は喧しくてかなわぬ。郎党にあてがわれた広間には必ず誰ぞが居るし、保の奴など寝ておっても歯軋りが酷い。そこへ行くとここは静かじゃからのう。急な勤めじゃと起こされずにぐっすり眠るには都合が良いのよ」
「……呆れた奴だ。それでよく源三位の郎党が務まるな」
「そんな有様だから置いて行かれたのだろうさ。この危急を前になんと暢気なものだ」
 堂々と語ってのける団三郎に、平家の郎党達は呆れ帰る。ここで団三郎、さらに首を傾げ、
「置いて行かれるとはなんじゃ。一体何があった」
「ふん。そこまで知らぬとは哀れなものだ。貴様の主は平家に反逆の兵を挙げたのよ。源三位はおそれ多くも帝の地位を狙う以仁王に与し、この国に弓を引いた大罪人ぞ」
「な、なんじゃと!?」
 とどめに思い切り目を剥いて驚いてみせれば、郎党達からは笑い声まであがる始末。
「なんとも間抜けな。何千何万という大軍でもなかろうに、誰もお前が居らぬと探しはしなかったのか」
「まったく馬鹿なやつだ。大事な戦の前に置いて行かれるなど、源三位もよほど扱いかねていたに違いないな」
「そうとも。考えても見ろ。この騒ぎにも気付かず眠りこけているのだぞ? おおかた血の巡りが悪いと思われて邪険にされていたのだろう」
 そう言って嘲る彼等は、もはや微塵も団三郎の言葉を疑う様子はない。敵陣の屋敷にあるというのにすっかり毒気を抜かれ、悔しがってみせる団三郎に哀れみさえ向けていた。
「おい、何を騒いでおる」
 そんな中、足音を踏み鳴らしやってきたのは立派な装束を着こんだ武者であった。具足や兜は見事な装飾をされており、そこらのみすぼらしい郎党とは違って立場のある武士だとわかる。
「は、この者、頼政の手勢であるらしいのですが、どうも間抜けなことに寝坊し、出陣に出遅れていたようでして。こうして捕え、尋問をしていたところです」
「……源三位の手勢にしては呆れた愚鈍ぶりだな。その様子ではどうせ碌なことも知らぬであろう。手をかけるだけ時間の無駄だ。このような阿呆にかかずらっている余裕は無いのだぞ」
「はっ」
「ここがもぬけの殻と分かればもはや用はない。今より園城寺に向かったところで源三位には追い付けぬであろう。……おい、競と言ったか。運がよかったな、見逃してやる。どこへなりとも行くがいい」
「ちょいと待て、おい、それはならぬ!」
 言い捨て、郎党と共に去っていこうとする武者を、団三郎は呼び止めた。鬱陶しげに眉を寄せ、いらいらと口元を歪める男に、なおも声をかける。
「待て、待たれよ。……そこのお主! そう、お主じゃ!」
「なんだ、我らは忙しいのだぞ。見逃してやると言ったのだ、早く去ね。なにが望みかは知らぬが貴様の好きにするがいい」
「そうは行くか、たとえ己の失態とはいえ、置いて行かれた身でこのまま見逃され、おめおめと仲間の元に戻るなど、摂津渡辺党の面目が立つものか!」
「貴様……逃げぬというのか」
 この言葉を抗戦の構えと取ったか、郎党達がやにわにざわついた。やおら太刀に手をかける男達に、団三郎は大きく手を突き出して、
「違う、逆じゃ。勘違いせんでくれ。源三位の連中にはほとほと愛想が尽きたんじゃ。確かにわしは血の巡りは良くない。間抜けとからかわれることもあった。だが、馬鹿は馬鹿なりに精一杯勤めを果たしてきたつもりよ。それを、同じ釜の飯を食い、共に轡を並べて戦場を駆けたというのに、わしを置き去りにしてとっとと尻尾を巻いて屋敷を逃げるなど、薄情にもほどがある。ええい悔しや!」
 固めた拳を地面に叩きつけ、団三郎は大きく肩を震わせた。
「貴様がそれだけ間抜けだったのだ。所詮その程度、大事には役に立たぬ厄介者と思われておったのだろう」
「そうじゃ、ああ、そうじゃろうとも。だが、だが! それで黙っておれるものか。間抜けだろうと木偶の坊だろうと心はある。恥もある。のう、お主、頼む。見たところその鎧作り、お主は平氏一門でも名のある武者であろう。頼む、わしをお主たちの陣に加えてくれぬか! そうともよ、こうなれば恥をかかせてくれた源三位入道に一泡吹かせてやらねば腹の虫が収まらんのじゃ。ええい、思い出しても忌々しい!」
 団三郎が地団太を踏み、大仰に悔しがってみせると、男達も顔を見合わせる。単純だが一途な渡辺競が、同じ郎党たちに邪険に扱われたことへの同情もあるのだろう。ここが見せどころと団三郎はまっすぐ彼らに向き直り、深く頭を下げた。
「のう、後生だ、お主からもどうにか頼んで貰えぬか。生憎とわしには頼政の行方までは分からぬが、渡辺党の連中の顔ならば分かる。戦場で何を得意にしているかも知っておる。そして、これでも弓の腕は自信がある。嘘ではない、弓矢八幡にかけてまことのことじゃ。それしか出来ぬゆえ、ひとえに修練に励んだ。何かの助けになれるやもしれん。……頼む! このままでは馬も弓もないのじゃ。どうか、どうか頼む!」
 形振り構わぬ願いに、武者と郎党達はしばし困惑と共に顔を見合わせ――結局、この渡辺競を名乗る男を、六波羅へと連れて行くことにした。
 さて、行方をくらました頼政達の情報を喉から手が出るほど欲しがっていた宗盛、この渡辺競に面会を決めたのである。団三郎はここでも一門に置いて行かれた純朴で間抜けな武者を演じ通し、宗盛卿の興味をかうことに成功した。
「ふむ。まったく愚鈍な男よのう。しかしお主、どうして三位入道の供をせずに屋敷にとどまったのであるか」
「つい昨日まで、摂津源氏に万一の事があれば先陣を掛け、命を差し上げようと決めておりましたが、三位入道はなにを思われたか、何もわしに言ってはくれませんでした」
「成程のう……お主、確か宮中にも警護として参仕していたはずじゃの。そも、渡辺党と言えば頼光以来の摂津源氏へ忠心を捧げるものであろう。それがなにゆえ三位入道を裏切る。身の安全か、報奨が欲しいのか。いかにしてこの宗盛に仕えようというのか。正直に申せ」
 宗盛が高圧的にこう問えば、団三郎、はらはらと涙を流し、
「先祖伝来の御縁は確かながら、どうして帝に弓引き、朝敵となった方に味方することができましょうか。こうなればかつての主、仲間の過ちを止めるためにも、精一杯前右大将様に奉公いたしたくございます」
「ふむ、ではお主、源三位を討てるのかの?」
「討てますとも!」
「ほほほ。言うたの。……これは面白い。これ、誰かおらぬか!」
 これには宗盛、たいそう気を良くして頷いた。ぱちりと扇を鳴らし、頼政などとは比べ物にならぬ恩を与えるとまで言って、団三郎――競が平家に仕えることを許したのであった。
 あるいは、袖にされた渡辺党の郎党を己が寛大に取り立てるという懐の深さを外に示したかったこともあるやもしれぬ。また団三郎も忠臣を演じ、それから片時も離れることなく宗盛の近くに侍り、朝な夕なに呼び付けられるたび、『居ります』『居ります』と答えて伺候すれば、すぐに宗盛もその忠義を認めるようになったのであった。
 やがて日が暮れ、頼政が園城寺に入ったという報せが届いたところで、団三郎は宗盛の前に進み出た。
「御大将どの。三位入道は園城寺に留まるとお聞きしました。間もなく討伐の兵が差し向けられるでしょう。敵は寡兵、恐れるに足らずです。……しかし、かの地にはわしを置き去りにした三位入道や渡辺党の者どもが居ります。この恥辱、なんとしても雪ぎたいのですが、馬も弓も全て彼らに持ち去られてしまいました。なにとぞ、わしに馬をお預けくださいませぬか」
 そう、眼に涙を浮かべ、声を震わせて一心に願う団三郎を見て、宗盛もつい哀れに思ったか。あるいはかつての仲間と殺し合う頼政らを思い描いて悪趣味な嗜虐が動いたか。
 いずれにせよ己の兵を失わずに源氏どもが食い潰し合うのであれば幸いと、秘蔵していた白葦毛の名馬・煖廷にこれまた良い鞍を置き、貸し与えてやることにした。
 誰にも触れさせぬよう手元に抱えていた秘蔵の名馬を、いくら忠義を尽くすとは言えかつての敵の郎党、しかも会って間もない相手を信用して貸し渡すなど、冷静になってみれば有り得ぬことである。これもまた、化狸の人を誑かす本領がみせた神業と言えよう。
 団三郎もまた、欠片も油断なく宗盛の言葉に感涙してみせることを忘れず、
「早く日よ暮れろ、この名馬に乗って園城寺に馳せ参じ、敵陣へ駆けて一人でも多く奴ばらを仕留め、討ち死にしてくれる」
 などと戦意も露わに言ったので、宗盛もその配下達もすっかり彼の言葉を信じ、良い趣向じゃと笑うのみであったという。
 そしてその夜。まもなく日が沈み、あたりが闇に覆われると、団三郎はすぐさま行動を開始した。闇夜に隠れ、獣の俊敏さで風のごとく六波羅を駆け抜け、以前に確かめた泉殿の裏、厩の奥に囚われていたぬえの元へと辿りついたのであった。
 ぬえはまるで襤褸切れのように、厩の奥に転がされていた。
「…………っ」
 わずか数日を離れたのみにもかかわらず、ぬえの姿は以前にも増して酷い様相となっていた。突如平家を裏切った頼政への憎しみをぶつけんと、気性を荒ぶらせた宗盛や平家の者たち、そしてその郎党達までもが、身勝手に娘を連れ出し、鬱憤晴らしに傷め付けていたのである。
 少女の右眼は濁り、瞳孔の位置の判別もつかぬ。恐らくまともに見えてはいまい。顔の半分は鬱血して腫れ上がり、整っていた顔立ちは、憎しみの余りか見るも無残に切り裂かれていた。
 揚句、左右の腕は肘から下がぶらりと垂れ下がり、右足は膝の下で断ち切られ、左の足もまた折れた骨が突出して、腐り落ちてゆく最中である。『仲綱』として四足で歩くことを強要されての無体に他ならなかった。襤褸切れで覆われた下腹は血と膿で汚れ、白い肌には打たれた馬鞭によって赤々と裂け、肉を覗かせている。
 陰謀、戦乱が常の裏社会で長く過ごした団三郎ですら、眼を背けたくなる酷い姿であった。
「待たせたの、ぬえ」
 それでも動揺は押し隠して、ぐったりと力の無い娘の身体を助け起こし、団三郎はその耳元に囁きかけた。
 わずかながら反応があり、ぬえはぼんやりとした片眼を団三郎へと向ける。首を動かすのも難しいほど、娘は痛めつけられていたのだ。
 そうしてぬえが恐怖に身を硬くする。己が若武者の姿である事を思い出し、団三郎は声音を変えてもう一度ぬえに囁いた。
「安心せい、儂じゃ、団三郎じゃよ。……おぬしを助けに来た」
「……あんた」
 か細い声が辛うじてぬえの唇を震わせる。今度はもう躊躇わない。団三郎は有無を言わさずぬえの身体を抱え上る。頸筋の裏より引き抜いた紙片に息を吹きかけ、一枚の清潔な布と化けさせて、娘の身体をそっと包んだ。
「あまり時間がない。行くぞ、掴まっておれ」
「……ばか、やろう、はなせ…、これじゃ、あ、頼政、が」
「その頼政殿の頼みじゃ。……もう、良い。おぬしはもう、このような責め苦を負う理由はない。ぬえ、おぬしは立派につとめを果たしたんじゃ」
 静かに首を振り、団三郎はぬえの鼻先にふっと息吹を吹きかける。
 か細い力で抗おうとしていたぬえが、かくんと意識を失うのを見て、団三郎は彼女の軽い身体を再度抱え直した。
「すまんな、しばし寝ておれ」
 近くにあった適当な藁束に化術を掛け、横たわるぬえの姿を装っておいてから、団三郎は足早に厩を後にした。既に戦時となった六波羅の中には常に倍するほどの人がひしめき、戦支度を済ませた郎党や武者たちが気も荒く園城寺夜討ちの準備を急かしている。胸元にぬえを抱えた団三郎を不審に思うものも居たが、これは得意の弁舌と化術をもって騙し通し、彼女は一路、六波羅を駆け抜けた。
(――ぬえ、おぬしのしたことは、けして無駄ではなかったぞ)
 驚くほどに軽い少女の身体を抱きしめ、団三郎は腹の底で呻く。
 宗盛が、どこから頼政の鵺退治の真相を聞きだしたのかはいまも分からないままだ。だが、宗盛に確たる証があるのなら、このように以仁王が対立を露わにしてなお、彼女を有効に用いないまま放置しているとは思えなかった。
 もっと早くの段階で、鵺退治が茶番であったことを顛末もろとも白日にさらし、堂々と摂津源氏の長老の不正を暴いて、頼政を糾弾することもできたであろう。
 それをせず、見世物のごとくただ〝名馬仲綱〟を人前に引き出し苦しめる様を披露し、溜飲を下げるようなことを繰り返していたというのは、宗盛自身もぬえの正体に半信半疑であったことの証左ではないだろうか。
 いずれにせよ、ぬえがその正体を現さず、幾度虐げられようとも人の娘の木ノ下として諾々とその非道に従っていたことで、宗盛もついにその執拗な猜疑心の行き場をなくしたと見えた。
 ただ藁束に転がされ、か細い息を繰り返す薄汚れた娘は、摂津源氏への場違いな恨み、郎党たちの格好の玩具とされながらもなお、源三位頼政を守り抜いていたのである。
 夜闇に乗じて戻った団三郎は、宗盛より拝領した白葦毛の馬、煖廷を庭へと引き出した。さらに一頭、これまた宗盛の所有する名馬遠山を引き連れ、鋭く口笛を吹く。
 すると、闇の中からまろび出るように駆け寄る小さな影。団三郎が使いとする狸達である。いまだ功足りず満足に化けることもできぬ彼らは、しかし禽獣でありながら団三郎の忠実な部下であった。彼らに何事か言い含めると、団三郎は深く念を凝らし、精を練り上げて再度ひと化けを試みる。
 果たして、化狸は渡辺競一世一代の晴れ舞台とばかりに、若武者の姿へと変じた。飾り菊をあしらった平紋の狩衣に、着背長緋威の鎧をかさね、銀の星の輝く兜を締めた威風堂々の姿である。さらには厳めしく作った大太刀、二十四本を差した太中黒の矢を背負い、滝口武士の作法を忘れずに鷹の羽で矧いだ的矢を添えて。
 名実ともに摂津の渡辺競となった団三郎は、重藤の弓を取って煖廷にひらりと跨った。
「行くぞ、ついてこい!」
 そう言うと団三郎は馬上で、ぬえの身体を胸元にしっかとくくりつけ、呼び寄せた狸の一匹に化術をかけ、楯を持たせて従者とし、そのまま六波羅を飛び出したのである。
 六波羅内で騎馬を走らせる騒ぎに、邸内は激しく混乱した。行く先の者たちを構わず蹴散らし、いまだ夜討ちの合図もない中、白葦毛の一騎は疾走する。
「滝口の渡辺競! 急用じゃ、押し通る、押し通る!」
 大橋の門を固めていた警備の兵たちは、折からの争乱に備え警戒を強めていたものの、固く閉ざされた門を前に脚を緩めることなく、全速力で突っ切る団三郎を、あっけに取られて見送った。何事かと叫ぶ声、吹き飛ばされた郎党達の苦悶が広がり、六波羅の門はにわかに騒然となった。
 そしてさらに声が上がる。
「火じゃ! 火が出ておるぞ!」
 同時、この時鴨川を渡って近衛屋敷に先回りした狸達が、あるじの命のままに頼政の屋敷に火をかけたのである。
 やおらみやこの空を焦がし燃え上がる炎と、天の星々を覆う黒煙に、六波羅の者たちは大混乱に陥った。攻め手だ、火が出た、いや違う燃えておるのは向こう岸だ、誰かが忍びこんで居る。厩が荒らされた、以仁王の手のものか。いや違う。保元・平治の乱を知る者たちは燃え上がる炎を前にさらに慌てふためく。
 戦を前に多くの兵が動員され、普段顔を合わせぬ者たちが詰めかけていた事も騒ぎの拡大に拍車をかけた。闇も手伝って流言は交錯し、行き交う郎党たちの間にはたちまち苛立ちが募り罵声に怒号が満ちてゆく。
「いかがした! 何の騒ぎぞ!」
「――も、申し上げます!」
 飛び出してきた宗盛、どうやら邸内に賊が忍び込んだらしいという報告を受け、やにわに忠臣、競を呼んだ。が、当然ながら答えはどこからもない。さらには貸し与えたはずの煖廷だけでなく、もう一頭の名馬遠山まで奪われたことが分かり、ここに至ってようやく前右大将も己が謀られたことを悟った。
 宗盛は白塗りの顔を真っ赤にして怒りをあらわにし、扇を握りしめて叫ぶ。
「おのれ、おのれ田舎武者め! よもやこの宗盛を謀るとは! ええい、追え、はようあの競を追いかけて討てい!」
 甲高い怒り声が六波羅の夜を揺らす。平家総大将の命令一過、十数騎の騎馬が直ちに六波羅を走りだした。

 


◆ ◆ ◆

 


 その頃、団三郎の姿は白葦毛の馬上にあり、一路北の園城寺を目指し、みやこを脱するため京極大路を北へ北へと駆け抜けていた。既に従者の姿はない。化術の足りぬただの狸に人のかたちを保つのはわずかな時間で精一杯と見え、六波羅の門を抜け、五条大橋を渡りきったところで力尽き、河の中へと転げてしまったのだ。
 馬の脚を緩めず、彼等には近衛河原に向かった手勢と合流し安全な場所まで逃げるよう指示して、団三郎はなお馬を走らせた。
 しかしその後ろより、たちまち迫る騎馬の足音がある。宗盛の号令一過、矢のように六波羅を飛び出した平家の精強なる武者達である。馬の質こそ団三郎の跨る煖廷には及ばぬが、その練度は一介の化狸商人などはるかに超えていた。
 しかも団三郎の胸元にはぬえが抱えられている。見る間に距離は詰められ、月明かりの下に彼等の姿がはっきりと見えるほどに近づいていた。
「ち、流石に早いの」
 彼らは馬上にて素早く弓を引き絞り、一斉に団三郎に向けて撃ち放った。ひゅおうと風を切り飛びくる矢に身をかがめ、団三郎は舌打ちと共に振り返る。
 矢がかすめたと当時、団三郎が装った戦装束はばらばらと砕け、散ってゆく。渡辺競の太刀も鎧も、すべて彼女の化術に依って形を編まれたものだ。全力疾走する馬上での激しい戦闘の間にそれらを維持するのは想像を絶する念の集中を必要とする。いかな佐渡の化け狸とて、とてもそれら全てを保ち続けることは叶わなかった。
 追手の騎馬武者は馬の足を緩めず、次々に矢を射かけてくる。十二の追手が六騎ずつ分かれ、交互に矢を放つのだ。飛びくる鏃は途切れることなく団三郎を襲う。鏃が耳をかすめ、左の肩に突き刺さった。
「ちぃ…ッ」
 激痛に顔をしかめ、鏃を引き抜き放り捨てる。
 矢雨の中でも、煖廷、遠山の二頭はまるでおびえた様子がなく、団三郎の操るままに一意に北へと走り続けていた。成程平家の誇る名馬であると一人納得し、団三郎は手綱を繰って大路を左右に蛇行し、弓矢の狙いを絞られぬことに専念する。
 鮮やかに身をかわす団三郎に、平家の騎馬武者達は焦れたように声を上げた。
「おう、おう、止まれ、止まれ競! 逃さぬぞ! 大人しく降りて下るがいい!」
「……誰がするか、阿呆」
 吐き捨て、団三郎は腰を捻って背後を向いた。
 首を振って兜の変化をほどき、豊かな後ろ髪から数本を引き抜いて、ふうと息をかければこれがみるみる見事な弓へと変じた。さらに数本の髪をより合わせて弦を張り、ここに己の爪を折り取って矢と変え、鏃に己の血と唾液を塗りつける。
「――とっておきじゃ、喰らえ」
 獣の膂力も露わに弓弦を引き絞り、念じてやあっとばかりに射かければ、放たれた一矢は二に分かれ六に増え、たちまち十二の鏃となって宙を走った。それらはまるで毒蛇のように身をくねらせ、弧を描いて駆け寄る攻め手の一人一人を、見事に射抜いたのである。
 化狸の血と精を練り込まれた身の一部は、化術によって、狙い過たず標的を射抜く鋼の嘴、となったのだ。足並みを乱す追手に向けて、さらに一射。引き千切った爪をもって化術の技巧の極みを織り込まれた十二の鏃が、郎党達の頸を次々に射抜いてゆく。
 化術と呪詛の粋を込められた矢に首を飛ばされ、腕を貫かれ、胴を串刺しにされ、どうと落馬し倒れ伏す攻め手たち。彼等のほぼ全ては今の二射で絶命していたが、その中でひとりだけ、辛うじて息を留めているものがあった。
「……む」
 間違いなく頭を射抜いてやったはずのその郎党の様子に、団三郎は眉をしかめた。ふと思いついて鼻を動かせば、不快な匂いを確かに感じる。
「ふん、ひとり狐が憑いておったか、忌々しい」
 この男、普段より伏見の稲荷を熱心に奉じるものであった。狐と狸は古くより不倶戴天の敵である。彼の信心と、宮中に残る霊狐の加護が相乗し、致死の一矢より辛うじて男の命を守ったのだ。
 しかし腕と太腿とを深く貫かれ、もはや弓も引けず馬上にも上がれぬ様子。胸に抱くぬえの息が荒くなり始めているのを見て、これ以上彼らにかかずらっている暇はないと考え、団三郎は馬の頭を巡らせた。嘶きと共に地を蹴る白葦毛は、見る間に速度を上げ、風のごとくみやこを駆け抜ける。
「命拾いしおったな。……運のいい奴じゃ」
 後に、彼らを追ってきた仲間に助けられ、一命を取り留めたこの平家の若武者は、渡辺競の武勇を尋ねられ、身を震わせてその恐ろしさを語った。
 その弓の優れたること、あるじ源三位頼政に勝るとも劣ることなき、精強なる兵。その矢継ぎ早の弓業、速きこと神業のごとく、力強きことは人とも思えず、二十四本の矢を差しておれば、まず二十四人を射殺すことができよう。息も絶え絶えに語る彼の言に、平家の郎党達は震えあがったという。

 


◆ ◆ ◆

 


 ほどなくみやこを離れ、団三郎はあらかじめ調べておいた洛外の廃寺へと辿りついた。二頭の馬をつなぎ、胸に括りつけていたぬえを廃屋へと連れ込んだ。廃屋にはあらかじめ化術を仕込み、風景に溶け込ませて、遠目にはただの草叢にしか見えぬようにしてある。
 団三郎は窮屈な競の姿をやめ、元の化け狸の本性に戻ってから、近くの落ち葉を布団に変え、彼女をそっとそこに横たえた。
 改めてぬえの様子を目にし、そのあまりの凄惨さに、団三郎は歯軋りをせんばかりに平家の者たちへの憎しみを露わにした。
 ちらと寺の奥で傾いて埃をかぶっている本尊に視線を走らせ、口中の苛立ちを唾と共に吐き捨てる。
「……これだから仏などというのは好かぬ。お前らはそうやって澄ました顔をして救済などと抜かし、結局何もせぬまま見過ごすだけじゃ。それが仏の慈悲だというなら、畜生道に堕ちた儂ら妖怪には向けられぬということか。その口で、貴様らはこのような鬼畜にも劣る所業を成す人間すらも、許し導くというんじゃな」
 引き千切った爪から血のにじむ拳を床へと叩きつけ、その怒りを堪えて、団三郎は少女の傷を手当てする。医者ではない団三郎にはせいぜい、傷口を清め、薬を塗ってやるくらいのことしかできなかったが――それでも手当てを終える頃には、ぬえの様子はいくぶん落ち着き、呼吸も穏やかなものへと変わっていた。
「――酷い、熱じゃな」
 ぬえの額をそっとぬぐい、団三郎は陰鬱にうめく。全身の深い傷は妖怪であるはずの彼女を酷く苛んでいた。
 妖怪の本質は恐怖であり、人の恐れである。肉体が傷付くことは妖怪にとって本質的な傷とはなりえないはずだが、自分からそうと望んで受け入れた場合は違う。自分からその疵を受け入れてしまえば、それは容易に妖怪の心を砕くのだ。
 まだ若い妖怪であるぬえにそれがどこまで理解できていたかわからぬが、ぬえは宗盛の暴虐に対し命を賭して、ただの一人の人間の娘、木ノ下であることを貫き通したのであった。
「ぬえ、死ぬなよ」
 できることはした。あとは彼女の心次第と己に言い聞かせる。
 ひとまずぬえが落ち着いたのを見て、団三郎はその場を離れた。廃寺の外に出、楡の葉に頼政に向けて短く文をしたためた。これを鳥へと変じさせて頼政の元に届くように放つ。
 次いで、繋いでいた馬に近寄り、まずは遠山に鞍を付け替えた。廃屋に戻って朽ちた本尊のもとへと歩み寄り、念入りに呪を書き込む。
「今宵ばかりは、儂ら妖怪の助けとなってもらおうかの」
 団三郎が荒い息を堪えて全身の念を込めれば、仏像はひとりでに起き上がり、これまで団三郎が化けていた渡辺競そっくりの若武者へと変わった。ぎこちない動きで歩くこれを遠山の鞍に乗せ、落ちぬようにしっかり念を込めて括りつける。
 遠山の耳元に、声を書きこんだ楡の葉を張り付け、団三郎はその尻を大きく叩いた。いななきと共に遠山は一路、北を目指して走り始める。園城寺まで辿りつくように声真似の化術を仕掛けたが、途中で捕えられれば偽の渡辺競として目くらましになろうし、これほどの良い馬だ。うまく頼政のところまで辿り着けばわずかなれども力になるだろう。
「さて」
 そうして置いてから、団三郎は残る一頭、白葦毛の煖廷へと向き直る。その肩は大きく上下し、額にはびっしょりと汗が浮いていた。
 六波羅潜入からこれまで、立て続けに大化術を使い続け、すでに化狸の疲労は頂点に達しつつあった。精も根も残りわずか、身は鉛のように重く、ともすれば意識までもが遠くなる。人のかたちを取るのもおぼつかない状態で、なお団三郎は楡の葉を抜き、化術を行使する。
 もはや、執念のみが彼女を衝き動かしていると言っていい。
 残るわずかな力を振りしぼり、化術をもって造り出したのは鋏と焼き印である。団三郎は暴れる煖廷の鬣と尾を短く切り、その尻に熱した焼き印を押しつけた。
 さしもの名馬煖廷も、この仕打ちには声を上げて首を振るい、蹄を蹴立てて暴れ回った。それでもなお団三郎は手を緩めぬ。その背に抱きつき、しっかと白葦毛の馬の頸を押さえこんで、鬼気迫る形相で印を押しこむ。
 じゅうじゅうと煙を上げ焼ける馬の肌の上に、確実に『それ』が刻まれたのを見届けると、団三郎は転げ落ちるように馬の上から飛び降りた。最後の力で繋いでいた馬をほどき、その眉間に小さな火花を叩きこむ。
「――良し。……行け」
 前足を持ち上げ高らかに嘶いた白葦毛の馬は、口から泡を吹いてその場を跳ね回り、狂乱の中走り去る。かれが南へと向かった事を見届けて、団三郎はその場に倒れ伏した。
 ぜいぜいと息を荒げ、身体を引きずって、近くの木にもたれかかる。
 もはや身体は地面と一体となったかのようだ。このまま泥のように眠りこんでしまえばどれほど楽か。それでもなお廃寺にいるぬえの事に心を震わせ、団三郎は必死に意識を繋ぎとめる。
 遠く、白む夜空のみやこに響くのは、かすかな合戦の音。
 人と人とが争う鋼の音は、遠のく意識の中で、団三郎の心を不安にさせるばかりであった。

 


◆ ◆ ◆

 


 ここからは余談である。
 一夜明け、昨夜の混乱による騒動の爪痕がいまだ残る六波羅に、突如一頭の馬が舞い戻った。眼を血走らせ、口から泡を吹きながら、門を飛び越え厩になだれ込んだこの白葦毛の馬が、近くに居た馬達を手当たり次第に噛み荒らしたため、厩の雑人達は慌てて大勢でこれを押しとどめた。
 宗盛が驚いて駆け付ければ、それは確かに奪われた白葦毛の煖廷であった。
 しかし無惨に尾と鬣を刈り込まれ、歯を剥き出し、気が狂ったかのように暴れ回る様子はかつての名馬とはとても思えず、雑人十人がかりでも押さえ込むことが難しいほどであった。
 しかもその尻にはまだ真新しい焼き印が押されていたのである。
 その文字は、『昔は煖廷、今は平宗盛入道』と読めた。かつての木ノ下に対しての仕打ちの意趣返しであることは明白であった。
「な、な、な……!」
 これをみて宗盛、まさに絶句し、その後、何度もその場に躍り上がって激怒したという。
「忌々しきは競よ、すぐに園城寺に攻め寄せ、なんとしても生け捕りにするのだ! その首、鋸で挽いて落としてくれん!」
 そう叫ぶ宗盛の怒りを余所に、煖廷はいつまで経っても正気を取り戻すことなく、尾も鬣も生えぬまま、焼き印の痕は消えることもなかったという。

 

 

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