十二 名馬「仲綱」

 

 治承三年(一一八〇年)。
「――殿。頼政殿」
「あ、ああ」
 己を呼ぶ声に頼政が意識を引き戻されれば、目の前には呆れた様子の団三郎がいた。話の最中、いつの間にか物思いに沈んでいた事に気まずい思いをする頼政の前で、彼女は吐息を挟んで並べていた品を片付け始める。
「どうも、だいぶ身の入らぬご様子。また次の機会に出直すとしますかのう?」
「すまぬ、少しばかり気が抜けていた。歳だな」
「そう申されますな。三位入道どの」
 この年の春、頼政は病を口実に先延ばしにしていた三位への叙任を済ませ、秋には出家してその家督を仲綱に譲っていた。齢七十六、もはや先の短い老いらくの命を、仏門と歌会に向けるようになった頼政だが、近衛河原の屋敷にあって彼はいまだ摂津源氏の長である。
 団三郎がひょっこりと顔を出したのは先日のこと。またもしばらく前までみやこを離れていたという彼女が宋渡りの珍しい品々を献上して語ったのは、福原に築かれた平家のみやこの様子であった。
 先頃、清盛はついに後白河院との決別を決意。豊明節会に合わせて数千騎を率いて上洛し、院とその近臣より一切の権限を奪い、政治に関わることを禁じてしまった。世に言う治承三年の政変である。
 清盛が動いた直接の原因は、病死した嫡男・重盛や娘の盛子の領地を院が一方的に没収したことだった。立て続けに命を落とした嫡男と摂関家の後継者に、平家の専横に対する神罰であるという声も上がるほどであったが――それを受け入れる清盛入道のはずがない。
 そも、もはや両者の決別は時間の問題であった。後白河院と清盛入道、共に治天の君たらんとする両者の対立は避けられぬことであったのかもしれぬ。
 政変で解任された親院派の後任には平氏一門がこぞって名を連ね、平家の知行国は十七より三十二と倍増。これらは皆、逮捕や罷免された公卿たちの所領であり、いまや国内六十六カ国のうち半数を平家が支配下におくという、ある種の異常事態。その権勢はかつての道長公の望月の世にも匹敵する隆盛の絶頂であった。
 その中にあって、清盛の本拠福原はきらびやかに栄え、港には大陸じゅうの宝が集めた唐船が休むことなく出入りするという有様であるという。
「それほどまでに、栄えておるのか」
「清盛入道の膝元でありますからな。揚州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦……七珍万宝、一として欠けたることなしとはまさにあのことですかのう。しかし、どうやら源三位入道殿は、福原に集まる宝よりも気になるものがお有りのようですな」
「悪いか」
「かかか。七十五を過ぎてのご老体がそのような様では、いささか威厳と言うものが感じられませぬ。気もそぞろの上の空、まるで少年のように落ち着きがない。
 ……それほど大事なものであれば、手放してはならなかったのです。早まったことをなされましたな、頼政殿」
「言うな、俺は」
 つい反駁しかけ、頼政は続きを飲み込んだ。何を言っても八つ当たりなのだ。仏頂面で腕組みをする頼政に、団三郎は思案するように片目を閉じ、
「木ノ下より、無事でやっておるという便りはあるのでしょう?」
「まあ、な」
 一度だけ、目を覚ました頼政の枕元に歌が残されていたことがあった。見覚えのある筆跡には寒椿が一枝、添えられていた。一体どうやって届けられたものかは分からないが、素っ気なく無事を知らせる歌には、その内容とは裏腹に頼政の胸騒ぎは増すばかりであった。
 頼政もあれから黙っていたわけではない。ぬえの様子を探らせるためにあれこれと手を尽くしていたが、清盛とその父忠盛がその基礎を起こした平家の拠点は、幾多の戦乱を乗り越え、いまや無敵の結束を誇っていた。六波羅の警護は固く、また宗盛に気取られぬように進めるには限界もあり、平家内部の様子など窺い知ることはできなかったのである。
 顔を曇らせる頼政に、団三郎はやれやれと首を振り、
「仕方ありませぬのう。儂としても頼政殿がそうお悩みであるのをこれ以上黙って見ておるわけにもいきませぬ。どれ、ここは儂が一肌脱ぐといたしましょうかの」
「……お前がか?」
「まったく見ちゃおれませんからのう。恋し恋しやで気もそぞろでは、商いの話もできませぬ」
 お任せくだされ、とばかりどんと胸を叩いてみせる団三郎。商人に何ができるものかと思う頼政だが、すぐにその疑念を打ち消した。そもこの団三郎という娘、宮中に伝手を持つばかりか、海の向こうの佐渡や平家のみやこである福原にまで出入りする。先の狐の一件も含め、通り一遍の商人ではないことは明らかなのだ。
「なに。こう見えて、少しばかり姿を偽るのは得意ですのでな。六波羅など目と鼻の先、ちょいとひと駆け様子を見て参るだけです。気取られぬようなへまは致しませぬよ。……そうですのう、お代は次の支払いに色を付けて頂くという事でいかがかな、頼政殿」
 こうして団三郎は頼政に約定を取り付け、近衛河原の屋敷を後にした。
 表に待たせていた荷車を連れ、辻を六波羅とは反対方向の西へ、西へと進んでゆく。賑やかなみやこの中心を離れるにつれ、辺りはみるみると様相を変えていった。
 かつて唐の長安を模して築かれた碁盤目のような平安京の街並みであるが、いまやその繁華は大きく偏り、美しく賑やかな左京に比べ、右京の荒廃ぶりは目に余るほどである。
 没落して荒れ放題となった貴族の屋敷、大火で崩されたままとなっている土壁、打ち捨てられた寺院の後、廃屋に巣食う流民に野党たち。平安のみやことて大内裏のある中央をすこし離れればこのような荒廃は常のことであった。
 団三郎はそんな寂れた区画を奥へ奥へと分け入ってゆく。あたりの家々は等に打ち捨てられ、とても女の住まいや、商いの拠点とは思えぬほど荒れ果てたものばかりである。しかし奇妙にも彼女は迷うことなく入り組んだ辻を抜け、並ぶ廃屋の一つに入っていった。後を追った荷車もまた、廃屋の奥に消えていく。
 程なくして、廃屋からは彼女一人が姿を現した。
 いかなる不思議であろう。荷車もそれを運ぶ人夫たちも影も形もなく消えうせ、彼女自身の姿も見違えるほどに変わっていた。髪は灰にまだらに染まり、顔には深く皺が刻まれ、曲がった腰と共に長年重ねてきた労苦を思わせる。先程までの格子模様の襟巻もろとも男装は煙と消え、擦り切れた衣を纏うその姿はいかにも公家の屋敷で長年を務めあげた、初老の下女の姿であった。
 いったい、いかな術にて化けたものか。団三郎はそのまま老婆然とした足取りで来た道を引き返し、やがて六波羅に通じる五条大橋へと差し掛かった。
 そのまま平家の本拠へと出入りする人々に交じり、団三郎は堂々と六波羅の門を潜ったのである。門を固める見張りの郎党達は、まったくこれに気付いた様子もない。
「……見張りの質は落第点じゃなあ」
 一人そんなことをつぶやき、団三郎はさらに平家惣領の邸宅である泉殿へと向かう。
 流石にこれは見咎めるものがいたようで、巡回していた郎党たちが慌てて近づいてきた。
「待て待て、そちらは駄目だ。止まれ!」
「言っていただろう、今日は近づいてはならぬと。……ん? なんだ婆さん、見ない顔だな」
「……なんじゃと?」
 ぎょろりとした目玉で不機嫌そうに郎党達の顔を見上げ、団三郎は口元を歪めてみせた。
「おぬし、ここに勤めて何年になる」
「あん?」
「何年になるかと聞いておるんじゃ、答えんか!」
 突然怒鳴られ、郎党達が思わずたじろいだ。そこに畳みかけるように団三郎は身を乗り出し、皺枯れただみ声を張り上げる。
「五十年もここにお仕えしているこの婆を捕まえて、その言い草は何じゃ! 嘆かわしい、最近のひよっこはそんなことも知らずにこの館を守っておるのか! ええ!? なんとか言ってみんか!」
 唾を飛ばして迫る老婆の剣幕に郎党達がうろたえる。
「こりゃ、どうした! お主ら、名は何と言う! 申せ! 宗盛様にお願いして叱っていただかねばならぬ!」
「わ、わかった、わかった、悪かった。呼びとめてすまなかったな」
 慌てる郎党に、団三郎は近くに転がっていた木っ端を拾い、大きく振りかぶって見せた。
「ああん?! 悪かったで済むものか! まったく最近の若い者は、年寄りへの敬意を知らん! その態度は一体なんじゃ! ええい、そこに直れ、婆が性根を叩き直してくれる!」
「ま、待て待て。謝る! このとおりだ! 俺もこいつもまだ日が浅いゆえに無礼をした。この通りだ、詫びる。だからもう許してくれ!」
 周囲の視線がちらちらと集まりはじめる中、彼等は居たたまれずにその場を逃げるように去ってゆく。団三郎はふんと鼻を鳴らし、どしどしと地面を踏み鳴らしながら、そのまま悠然と泉殿に続く門へと踏み入った。
「さて」
 短くあたりを見回し、人目のないことを確認した団三郎、やおら腰を伸ばしたかと思うと、そのままトンと地面をけって屋根の上に飛び乗る。瓦屋根の上に身を伏せて素早く移動し、屋根伝いに屋敷の奥へ奥へと侵入してゆく。
 眼下に広がる六波羅の街並みを眺め、団三郎はふうむと顎をさすった。
「さすがにここらはだいぶん厳重になっておるのう。それでも宮中とは雲泥の差じゃが」
 貴族の屋敷ともなれば、その立地はただの地勢だけではなく、政治意図や血筋に基づいて細かく住居の区画を定められ、さらに風水、卜占、気脈や方位などを十分に吟味して建てられるのが常である。そうした屋敷は自ずから堅固な結界となり、侵入者を拒むものとなるはずなのだが、ここ六波羅にはそうした備えがあまり見られない。
 平家の権勢はここ数十年で急速に拡大したものであり、それゆえか盤石の守りを固めるみやこには相応しくない乱れが目立つ。先程の巡回の郎党達の様子からも、人材の不足は明らかだろう。
 泉殿に近づくにつれ、あたりには郎党の数が増していた。どうやら今日は惣領宗盛の元に多くの来客があるらしく、彼等の供をしてきた者たちが控えているらしい。殿のまわりでは忙しなく家人が宴の準備に走り回っていた。彼等に細かい指示を出し、あれこれと指図しているのは大柄な初老の男。大きな赤い鼻がいやでも目につく醜男である。
 彼こそ団三郎がみやこでしのぎを削る商売敵、いまや押しも押されもせぬ平家の御用商人、朱鼻伴朴であった。
「あの赤鼻めもすっかり大臣気取りじゃなあ。……おうおう、威張り散らして、みっともないのう」
 どうやら、平家の増上慢はそれに関わる者たちにも伝播するらしい。一瞥で朱鼻への興味を失い、団三郎はさらに屋根を進んで、泉殿の西の廂に取りついた。ぴたりと身を潜め、静かに気配を殺して様子をうかがう。
 すぐ下の庭ではまさに椿を囲んで宴の最中であった。集まっているのは平家の重臣たちであり、清盛の息子や孫たちの姿も多い。皆、福原には向かわずみやこに残った者たちであり、その中には宗盛の姿も見ることができた。
(昼間からずいぶんと豪勢なことじゃな)
 既に大分、酒も回っていると見え、宗盛らの顔は赤い。いつから飲み始めているのだろうかと呆れる団三郎である。
「やあ愉快、愉快。先の乱でみやこもずいぶんと風通しが良くなったものよ」
「これでお主も弟ともども公卿の仲間入りか。まったく良い世の中になったものだ」
「そういうお前も殿上人よ。鬱陶しい検非違使に悩まされることもなくなった。まさにこの世の栄華、平家の御世であるな」
 宴の参加者には先の政変で主要な地位についた者たちが多く含まれているらしかった。その話題はまったく聞くに堪えぬもので、誰某が媚びへつらって賄賂を送ってきただの、官位を追い抜いたので気に入らなかった公卿を呼び出し、あらぬ咎で怒鳴りつけてやっただの、どこぞの男と恋仲であった娘を力づくで奪ってやっただの、所領から水増しして税を分捕ってやっただのと、醜悪なものばかりである。
 それに返るのは阿諛追従の声ばかり。渋い顔をしている者は一人もいない。
(己に逆らうものはここに入れぬ、か。拙いやり方じゃな)
 これが今のみやこを治める者たちかと、団三郎は憤りを抑えられなかった。
 少なくとも清盛であれば、好悪で付き合いを決めるこのような無様な真似はしなかっただろう。反発を許さぬ宗盛のやり方は、平家全盛の世の中にあっては間違いとは言えぬだろうが、清盛入道の後継者としては器の小ささを露呈していると言える。
(まあ良い、今は用事が先じゃ。……しかし、この有様ではちと話にならんか)
 宴に同席している者たちは皆ことごとく酒が回っており、まともなやり取りなどできそうにない。誰かを捕まえて話を聞こうにも、一人になる気配もついぞ見えぬのだった。
 幸いにして宴はまだ終わる様子を見せぬ。手薄なうちに邸内に侵入して様子をみるかと、団三郎が考え始めたときであった。
 にぎわう宴の中でぐいと盃を煽った宗盛、白く塗りたてた顔を赤くして、声を張り上げる。
「さて、さて皆、実に今日は楽しい、みな愉快にやっておるな」
 平家惣領の言葉に、居合わせた者たちは一斉に答える。未来永劫続く平家の繁栄を祝って、朱塗りの盃が掲げられた。その歓声にたいそう気を良くしたらしき宗盛、扇を広げて庭の隅を指し招く。
「そうかそうか。……まったく今日はめでたき日よ。どれ、それではこの宗盛より、お主たちにひとつ面白いもの披露してやるとするかの。……これ」
 宗盛はパチンと扇を鳴らし、侍従を呼び付けて何事かを囁いた。ぱっと駆けだす侍従を見やり、庭の宴席に向き直る。
「さて皆、宗盛が尋ねるぞ。世に知られた名馬は多くあれど、その中の一番はいかなるものか、知っておるものは居るかの」
「ふむ……? これは、宗盛様は面白い事を申される。これはなにかお考えがありそうじゃな」
「頑強さで言えば木曽駒、山地をも駆けると名に聞こえるならば甲斐の黒駒。あるいは坂東の千葉や上総が広大な土地に多くの馬を抱えておると聞きまずが」
「然り、田舎の馬は気性も荒く、みやこには馴染まぬ。どうにも扱いにくいものだが、さりとて戦場においてこればかりは畿内の馬ではどうもうまく行かぬ」
 この時代、良い馬を確保することはそのまま戦力に直結した。みやこを舞台にした幾度もの乱で武力が重要な役割を果たしたことで、彼等は各地にある名馬を集め、その勢力拡充の手段としていた。栄華は極めようとやはり軍事貴族の一門。生まれながら学に欠け歌や漢詩は好まぬ者も、馬の話となれば興味を持つのは当然なのである。
「さて、名馬となれば上総の磨墨、下総神馬の生食。古くを遡れば聖徳王を乗せ千里を駆けたという黒駒など、幾多がありましょうが、その中の一番というのは、我等にはとんと見当がつきませぬな。宗盛卿のもとには、清盛入道より賜ったという白葦毛の煖廷、あるいは遠山なる名馬が居られたはずでありますが……?」
「ほほほ。そのようなものではないぞ。なに、つい先日のことであるがの、とある伝手より良い馬を得たのじゃ。それを皆に披露してやろう」
「ほう……これはなんと、面白い」
 ざわつく一堂の様子に満足したのか、宗盛はにんまりと口を撓めた。侍従の目配せに準備が整ったことを確かめ、扇をさしまねく。
「では皆、あちらを見るが良い。あれぞかの鵺退治の武勇を誇る、摂津源氏の長老三位入道頼政殿より拝領した名馬『仲綱』である」
「……なんと?」
「聞き間違いか、今たしか――」
 ざわざわと場が乱れる。仲綱とは摂津源氏の現棟梁、頼政の息子の名前である。耳を疑うのも仕方のないことだろう。
 だがその騒ぎは、次の瞬間にさらに大きくなった。
 縄を引かれ、奥の厩舎から惹き擦り出されてきたのは――素裸に剥かれた、一人の娘であったのである。
「…………ッ」
 くせのある黒髪の、まだ十を少し過ぎたばかりの幼い娘であった。できるだけ気丈に振る舞おうとはしているものの、娘の表情は隠しきれぬ恥辱に歪み、気の強そうな視線も不安を隠せず下を向いていた。
 一切の衣を身に纏うことを許されず、肋の浮いた白い肌が陽の光の元に引きずり出される。周囲の視線が一斉に集まる中、娘は懸命に己の身体を隠そうとしていたが、いくら小さな身体とて、細い手足で隠しきれるものではない。
「なにをしておる、馬が二足で歩くか!」
 そんな娘に向け、馬番より猛烈な勢いで鞭が振るわれた。激しく背中を打たれて地面に突っ伏した娘は、そのまま首の縄を引かれて四つ這いとなって歩くことを強要される。ぐ、と呻く声が地に塗れた。
 四つ這いとさせられた娘の腰裏は痛々しいほどに焼け爛れている。そこには『仲綱』と、馬の名前とその所有を示す焼印が押されているのだ。
「皆、いかがか。これが名馬『仲綱』である」
「ほほう……これは」
 嗜虐に白面を歪め、ほほほと笑う宗盛が、愉快そうに扇を鳴らす。
 驚きの表情を見せていた一同も、これがいかなる趣向であるかを理解したようだった。
(…………、なんじゃ、これは)
 団三郎は絶句していた。
 これが、人のすることか。ぎりと噛み締めた歯が軋り、知らず握りしめた拳に力がこもる。爪が掌に突き刺さって血をにじませるが、彼女はその痛みすら感じられぬほどだった。
 六波羅は敵の、平家の本拠だ。けして、ぬえが良い扱いをされているとは考えていなかった。しかしこれは、これでは、あまりにも酷すぎる。
 地面を引きずられる娘を見て、宴はさらに醜悪な盛り上がりを見せ始めていた。鞭を振るわれ、首の縄を引きずられてなお、ぬえは気丈にも視線に力を保ち、反抗的な目を宗盛に向ける。それをまた不敬だと鞭を振るわれ、みるみるうちに娘の背中は赤く腫れ上がっていく。
 ぬえは従者に追われながら、庭じゅうを引き回されてゆく。痩せて肋の浮いた身体が、骨ばった手足に太腿が、わずかに色づいた胸の先や、突き出された薄い尻、産毛も生えぬ脚の付け根までが、男達の下卑た視線に晒される。
 泥に汚れ、傷だらけであっても、娘の白い素肌に走った赤い傷痕が艶めかしくうごめき、また屈辱に歪む気の強そうな面立ちがきっと睨みかえす様は、実に男たちの下卑た嗜虐心をそそるのであった。
「この通り、この『仲綱』、実に気性の荒い馬での。宗盛も扱いにはたいそう苦労しておるよ」
「ふうむ。なんとも貧相な身体じゃのう」
「然り、これが源三位どのの自慢とはのう。かの武門、摂津源氏の凋落はあきらか。なんともまあ哀れなことだな」
「さて……どうであろうか。清盛様も信頼されておるようだが、なにしろあの老骨は腐っても源氏。我らに内密で不届きなことを考えていたとしてもおかしくない。名馬とは名ばかり、愚にもつかぬ駄馬を送って我らを謀ったとは思えぬか?」
 口々に身勝手な言葉を向け合う男達に、宗盛はほほほと声を上げて笑い、
「なるほどなるほど、名に聞こえる名馬とて確かに評判で決まるものではないの。実際に確かめてみねば納得いかぬというのは道理であるな。どれ、これなる名馬『仲綱』をもって、誰ぞ一駆けしてみる者は居るか?」
 白面を歪めての宗盛の言葉に、どっと一堂が沸く。
(…………!)
 ざわりと団三郎の背中が逆立った。激情のまま庭に飛び出して行こうとする己の短慮を、すんでのところで自制して、団三郎は懸命に冷静を保とうとする。
 そうしているうちに、宴席の中から声を上げる者がいた。
「その役目、この早池峰の豪太がつかまつります!」
「おう、良い良い。宗盛が赦すぞ。存分に駆けさせてみよ。この『仲綱』、かの源三位入道どのが我が子のように大事にしておる自慢の名馬であるそうだからな。見てくれはこのように貧相であろうと、さぞ素晴らしき脚で風のように戦場を駆けるのであろうよ」
 宗盛が扇をもって差し招く。彼を取り巻く郎党達が厭らしく笑った。
 一番に名乗り出た豪太という郎党は、背の丈六尺半はあろうかという巨躯の男であった。ただ大きいだけでなく、腹は岩のように突き出し、小柄なぬえを片腕で抱えあげてしまえそうな太い腕と脚をしている。馬具を身につけ無遠慮に近づく豪太に、ぬえの顔は蒼白になっていた。
「どれ、乗り心地を試させていただこうか」
「豪太、宗盛卿がお赦しじゃ、体面など気にして加減などするでないぞ!」
「そうじゃ、それでは前の持ち主の源三位入道どのにもかえって失礼と言うもの、存分に一駆けしてみせよ!」
「心得た」
 豪太が力強く頷くと、さらに喝采があがる。げらげらと響く下品な笑い声には、娘をなじるように囃し立てる声も交じっていた。
 太い手を伸ばして迫る男に、ぬえが思わず後ずさりそうになる。しかしそこに飛ぶ鋭い鞭が、娘の身体を地面へとねじ伏せた。荒縄と革の鞭は娘の白い肌を引き裂き、既になんども鞭をあてられた下腿はどす黒く腫れ、血塗れである。
「この愚図め、大人しくしろぃ!」
「っ……」
 ぬえの首にかけられた荒縄を引きずり、馬番が無理矢理に彼女の身体を押さえ付ける。その背中に郎党は加減なく腰を下ろした。馬具を付けた踵で、ぬえの脇腹を容赦なく蹴りつける。
「ぁぐっ……!」
 腹を押さえぬえが呻く。それでも彼女は懸命に、四足となって身体を保とうとした。男一人の体重を支えるにはあまりにも頼りない細腕が震え、膝はみるみる血まみれとなる。
「どれ、駆けよ『仲綱』!」
 肩を震わせ耐える彼女の腹へ、再度激しくかかとが打ち込まれた。肋を思い切り蹴り上げられ、ぬえはそのまま地面に反吐をまき散らした。
 それでもぬえは懸命に進もうとするが、小さな身体で自分の倍以上あるような巨漢を支えるようなことができるはずもない。必死に地面を擦る掌と膝は、たちまち皮がめくれ血が溢れてゆく。
「どうした、ほれ! 駆けよ! 駆けて見せよ、『仲綱』!」
「豪太。どうした? ちぃとも動かぬではないか」
「……ふうむ、これはやはり、大した馬ではないと見えるのう」
「おうい豪太よ、おぬしまさか手を抜いておるのではあるまいな。それともお主では女に乗るようにはいかぬか?」
「あっはは、違う違う。この馬が強情なのよ。どうにもまだ己が宗盛さまのものであることを分かって居らぬ。ゆえに生意気にも逆らうのだ。ほれ『仲綱』どうした、宗盛様の御前ぞ。ご命令に従って駆けて見せよ『仲綱』よ! それとも、動けぬというのか? 我らに逆らうつもりであるか、『仲綱』よ!」
 罵られ、鞭と脚に殴打されながら、ぬえは懸命に歯を食いしばって動こうとする。しかし背に大の男ひとりを乗せて華奢な身体が支え切れるはずもない。腕は震え、ばしりと頬を叩かれた衝撃で投げ出された身体は地を擦り、無惨に地面を引きずる膝は擦り切れてゆく。
 突っ伏した後ろ髪を掴まれ、無理やりに持ちあげられた顔に、容赦なく平手が飛ぶ。頬と目の端が切れ、少女の顔を鮮血が伝う。
(何故じゃ)
 団三郎は、唇を噛み締めて必死に耐えていた。とうに辛抱の限界は超えている。しかし、彼女があえて割って入るのを自制しているのは、ぬえが一切の反抗を見せぬからだ。宗盛らから醜悪な辱めを受けてなお、従順なままでいる彼女が、あまりにも不可解だったのだ。
(何故じゃ、ぬえ……! なぜ、何もせぬ!)
 団三郎とて女だ。このようなおぞましい振る舞い、赦しておけるはずがない。この場の者たち全員をくびり殺してなお足りるはずもなかった。だというのに、ぬえは諾々と男達の成すがままにされているのである。
「強情な。動け、ほれ、どうした、駆けてみんか『仲綱』! ええい、なんたることだ、この愚図め、まったくどうしようもない間抜けだな『仲綱』、貴様は!」
 興に乗って罵声の調子を上げる豪太に、郎党、近臣達は腹を抱えて笑い転げる。小さな身体に跨って、仲綱、仲綱、と呼び付けてその尻を叩き、腹を蹴飛ばし、顔を殴り付け、必死に命令に応えようとするぬえを弄ぶ。
 宗盛は一段上からそれを眺め、白面を喜悦に歪めていた。権力と、欲情と、さまざまな容貌の混じり合った醜悪な笑みだ。
「ふむ、古今の名馬と聞いていたが、……摂津源氏の自慢というのも案外噂倒れであったな」
「なあに、いかな名門とてたまには調子の悪いこともありましょう。しかしこの様子では重大時にも役に立つとは思えませぬが」
「まったく、口ばかり達者で困りますのう」
「ほれ、どうした『仲綱』、この愚図め、まったく仕様の無い奴だ、駆けよ! それでは亀よりも遅いぞ! ほれ、進め、進まんか!」
「これは駄目ですな宗盛様、こいつはまったく、言う事を聞きませぬ」
「ほほほ、仲綱は仕様のない駄馬じゃな。どれ、皆で躾けてやるがいいぞ。……誰ぞ、次に仲綱を走らせてみるものは居るかの?」
 酒臭い息を興奮に混じらせ、我ぞ我ぞと次々に手が挙がる。もはや見て居れず、団三郎はきつく目を閉じ、耳を塞ぐしかできなかった。

 


◆ ◆ ◆

 


 長い凌辱が終わり、ぬえが引きずられていった場所は、古びた厩舎の片隅であった。六波羅には新たに増築された厩舎があるため、手狭なここには病の馬や役に立たぬ老いぼれを繋いでおくための場所として使われており、ぬえはそこに裸のまま放り込まれていたのだ。
 無論、人として過ごすための備えなど何もない。古びた板は外れ、隙間風も酷く、放ったらかされた水桶には蟲も沸いている。
 宴席でさんざん弄ばれたぬえを厩舎に放り込み、馬番たちはすぐ外で酒盛りを始めていた。宴席のおこぼれに預かって、彼等も上機嫌で顔を赤くし、酒臭い息をまき散らす。
 ぬえの姿は、目を背けたくなるような酷い有様だった。
 背は鋭い鞭を何度も当てられて皮がめくれ、生々しい肉を覗かせている。四足でいることを強いられ続け、泥に塗れて手足は傷つき、どす黒く腫れ上がって骨が見えているほどだ。腰裏の焼印は焼け爛れて皮膚には膿があふれ、かろうじて『仲綱』の文字を保っているばかり。
 いかに出自の知れぬ娘とは言え、源三位から預かった少女を、牛馬のごとく厩に繋ぐという非道があろうか。馬の蹄や、棒で打たれたのであろう醜い痣が、ぬえの身体の至る部位に残っていた。
 散々蹴り飛ばされた肋や二の腕の骨も、何本も折れていることだろう。眼は半分潰れ、張られた頬は毬のように腫れ、口も満足に開かぬ始末。うつ伏せになってか細い息を漏らし、時折背を丸めて咳き込んでは血を吐く姿は、もはや見ておれぬ凄惨なものである。
 人でないからこそ、辛うじて命を繋いでいると言っていい。
 だからこそ、団三郎には彼女の姿が理解できなかった。厩舎に忍び寄った彼女は、近くで酒を煽る馬番たちの様子をうかがう。
 既に泥酔した様子も見える男達の増長はなお深く、平家の権勢を笠に着て、さらなるおぞましいものへと変貌していた。
「おう、あの娘をか?」
「そうよ。どうせ退屈しのぎだ。一度試してみたいと思っておった」
「っくっくく、んだよ、またくだらねえ事思いついたのかよ、おめえはよぉ」
「どうだ、賭けぬか」
「何をだ」
 ちらと厩舎の方に視線を向け、顔を寄せ合う男達。
 その言葉は、下卑た欲望に塗れてあまりにも醜悪なものだった。
「女子の胎に、馬の一物が入るのかどうかだ。どうせこんな機会でもなければ試せぬだろう」
「っくくく、馬の? 馬か、そりゃあ傑作だ! そりゃおめえよぉ、出来ねえに決まってんだろ! よしッ、乗った! 出来ねえに賭ける!」
「おい、良いのか、勝手にそのような事」
「宗盛様は好きにして良いと仰せだぞ。生きておればよかろう。案外しぶとい娘だ、あれだけ痛めつけられてまだ息がある。平気だろうさ。……そうだな、馬場入道どのより賜った名馬に種を付け、仔馬を産ませてお役に立てる心算だったとでも言えば理屈は付くさ」
 酒の勢いもあってか、目を濁らせた男達の言動には歯止めがきかない。
「馬の魔羅をか。馬鹿馬鹿しい。いくらなんでもあんな幼い娘だぞ。無理に突っ込めば、股が裂けてしまうだろうが」
「わからんぞ、女子というのは子を産むのだぞ? 馬の一物はでかいが精々腕ぐらいだろう。あれぐらい、どうにかすれば入るのではないかな」
「っくく、お前の粗末なものと一緒にしちゃいけねえだろよ!」
 げらげらと声が上がる。罵声と共に酒臭い息。
「しかしなあ、まだ餓鬼だろう。あの肋だらけの身体、稚児と変わらんぞ?」
「いやあ分からんぞ。なにしろかの頼政卿のお気に入りであるらしいからのぅ。存外と、とうに男を知っておるのではないか」
「っは、そりゃあお前、あれだ。老いぼれのしなびた一物なら丁度具合がいいってこったろう」
「そりゃ違いないな」
 どっと沸く場の中で、下卑た笑いを浮かべながら、馬番の一人が立ち上がる。濁った眼はとうに正気ではないと知れた。
「おい、本当にやるのか」
「当たり前だ。煩いことを言われる前に済ませればいい。ことによったら、本当に子を孕むかもしれんな」
「産まれてくるのは馬の子か、人の子か? どちらにせよ、源三位に送り返してやればどうだ。きっと良い後継ぎができたと喜ぶであろうよ!」
「……下衆めが」
 もはや辛抱の限界であった。頼政との約束をかなぐり捨て、団三郎はその場に飛び出す。装っていた下女の姿は止め、元の姿へと戻って走る彼女に、馬番たちは反応できなかった。
 団三郎はぎりと握りしめた拳を押さえ、懐から楡の葉を出して男達の前に吹き付ける。
 びゅおうと吹き付けられた葉は男達の身体を飲み込んでゆく。顔を、耳を、鼻を、息吹に塞がれ――馬番たちは一人残らず、意識を失ってばたばたと倒れ伏した。
「…………」
 無言でじっとそれを見降ろし、団三郎は険も露わに力を込めた爪を男の首へと押し付けた。そのまま逡巡をしばし。かろうじてそれ以上は自制し、侮蔑と共に一人の胸倉を蹴りつけて、団三郎は厩の奥へと走った。
「――ぬえ、おい、ぬえ、起きんか!」
 声を絞って、ぬえを抱き起しその頬をはたく。
 見るも無残な身体は、正視出来ぬほどに痛めつけられていた。人ならぬ妖怪の身とは言え、あれだけ身体を傷めつけられて無事な訳がない。ましてぬえは、ほんのしばらく前までただの娘だったのだ。
「ぬえ……!」
「……ん」
 細く目を開け、何度もむせるように咳き込んだ。吐き出した痰にはひどく血が混じっており、片目はまっすぐ前を見られないほどに腫れあがっている。
「誰、……?」
「しっかりしろ、団三郎じゃ! 頼政どのから頼まれて来た」
 頼政の名を出した途端、ぬえの視界が焦点を結ぶ。
「……あいつ、の?」
 口の中を相当切っているのだろう、たどたどしく言葉を紡ぐぬえを抱え起こし、団三郎は彼女の耳に顔を近づけて囁いた。
「そうじゃ。お主の様子を見て来いと言われてな。手を出さぬと約束してきたが、この有様、とてもではないが看過出来ん。さ、ゆくぞぬえ。これ以上この場にいてはならん」
「駄目」
 ぬえを抱きかかえ、立ち上がろうとする団三郎。しかし――かすかに、けれどはっきりと。
 ぬえは団三郎の手を拒絶した。彼女の手を振り払おうと、弱々しくぬえの手が持ちあがる。
「――頼政たちには、言わないで」
「何故じゃ!」
 とうとう声を荒げ、団三郎はぬえに顔を近づけた。どうしてここまで、ぬえは抵抗を拒否するのか。その気になりさえすれば、逃げ出すことなど容易いはずなのに。何故こんなになるまで、平家の連中に虐げられることを受け入れるのか。団三郎には理解できない。
「いいから、はやく……にげて。見つかる……」
「そのような心配、されずとも心得ておるわ! 儂がここの連中相手に不覚などとるものか!」
「平気。……これくらい、なんてこと、ないからさ」
 ぬえは笑顔を作ろうとして咳き込み、健気に頷いた。口元から溢れた血が団三郎の胸を汚す。
「わたしが逃げたら、頼政が疑われるだろ。……あいつ、いま、すごく大事なことをしてる最中なんだろ。……わたしが戻ったら、ぜったい、迷惑になる」
「迷惑など! そんなもん、好きにさせてしまえ! なにを世迷言を――」
「いいんだ。……わたしは、人間じゃないから」
 げほりと粘つく咳をして、ぬえは哀しく笑った。
 団三郎は気付く。ぬえがこうしているのは頼政のためだ。摂津源氏の長老を守るために、無力な人間の娘を演じているのだ。
「何故じゃ」
 血を吐く思いで団三郎は問う。
「――おぬしは、なぜそうも諾々と、されるがままにしておる。たかだか人間風情に!」
 彼女を知るものならば驚く叫びであった。あるいは、団三郎の矜持がそうさせたやも知れぬ。ぬえはみやこを騒がせた大妖怪だ。まだ年若く、妖怪としての立ち振る舞いこそ幼いものは残るだろうが、元は人である。事によれば団三郎よりもよほど、人の世で上手く立ち回る智慧もすべも持っているはずであった。
 それがどうだ。この有様は、この惨めな姿は。北面武士を尻目に宮中を翻弄し、帝すら脅かしたはずのぬえが、ただのか弱い娘のように、男どもの慰みものにされ、凌辱をあるがまま受け入れていることが、団三郎には信じられない。
「わたしは、これくらい、平気だから」
 ごほりと、血の混じった痰を吐いて、娘は乾いた唇を震わせた。頬に張り付いた髪を払ってやろうと指を伸ばした団三郎は、その下に隠れた彼女のもう半分の顔を凝視し息を飲んだ。声を押さえ、震える指先でそっと手を戻す。
「わたしは人じゃない。……これくらいじゃ、死なないからさ」
「限度というものがあろう!」
 妖怪にとって、人に化けることは己の力や格を誇示するものであると同時、己が妖怪である事を忘れてしまいかねない諸刃の刃である。まるで人のように諾々と従っていては、いかなる強力な妖怪とても心が屈し、無尽蔵の命も頑強な身体も、無双の怪力も損なわれるものだ。
「今のおぬしなら、その気になればいくらでもできるじゃろう! あの下衆どもを残らず縊り殺してやることも! 恐怖に狂わせ心を砕くことも! 首を落とし、四肢を噛み千切り、腸を食い破ってやることも! それなのに何故、なぜ、このようなおぞましい恥辱に塗れるを良しとする!」
 ぎりり、鼻に皺を寄せ、剥き出しにした牙を軋らせて、団三郎はきつく爪を立てた。土壁にがりがりと食い込む左右の手に痛みを覚えながら、
「……お主には、他者をたばかることなど、容易かろう」
「くく……っ。無茶言うなよ。……わたしの正体不明の力は、都合良く、見せたいものを魅せられる力じゃない。自分が誰なのかを、分からなくするだけなんだ」
 みやこを脅かした妖怪――鵺。その根源は、恐怖と怪異と、得体の知れぬ暗闇への畏れだ。頭は猿、手足は虎、体は狢、尾は蛇。不可解と、恐怖を継ぎ合わされて産まれたいびつなばけもの。
 そんなもののヨリシロにされた娘は、悲しき鳴き声と共に叫んだのだ。

 ――この身は、何ぞ。

 頭は猿、手足は虎、尾は蛇、身体は狢。
 見たものを恐れさせる力は、それゆえにぬえ自身にも制御できない。だから彼女はただ耐えたのだ。真実自分がそうであったかのように。木ノ下という人間の娘として。
「それにね」
 団三郎の腕に抱えられ、噎せながらぬえは答えた。半分だけのまともな顔で、なんということはないかのように、笑みを作って。
「わたしが人でないことに気づかれたら、頼政が困るんだ」
 平氏全盛の京にあってなお知られる摂津源氏の棟梁、源三位頼政の名は、元をただせば八幡太郎義家の故事に倣い、宮中を騒がした鵺を射殺した事実の上に成り立っている。その彼が、あろうことか仕留めたはずの鵺を手元に匿っていたとしたら? 源氏の棟梁として、これ以上ないほどの醜聞である。頼政の名は地に落ち、長年にわたって築き上げた信用すら失うことであろう。
 それどころか、ばけものを使って帝を脅かす謀をめぐらせ、翻意すらあったと捉えられかねない。ぬえはそれを危惧していたのだ。
「だから、わたしは戻らない。……ここに、残るよ」
 咳の中、静かにそう告げて、ぬえは団三郎の手を押しのけた。
「助けに来てくれてありがとう。でも、わたしは、平気だから。あんな連中どうだっていいし、そのうちすぐに飽きるさ。だから、放っておいて。
 頼政の奴には、上手くやってるって、伝えて」
 ひゅうと細い喉に息を吸い込み、ぬえはもう一度、団三郎の手をとって押しやった。
「――わたしは、へいき。
 だから……わたしのことなんか気にせずに、あいつは、あいつの好きなようにすればいいんだ。ただ……無茶はするなって。それだけで、いいから」
 団三郎がもう一度口を開きかけたところで――ちりりと小さく鈴の音が鳴る。見張りの術が仕掛けられていたらしい。一定以上の時間が過ぎると報告をする仕組みなのだろう。
(ちぃ、儂としたことが……!)
 すっかり頭に血を登らせ、稚拙な罠すら見落としていた事に、団三郎は歯噛みする。
「早く、行って。……見張りが来る。いまの平家には陰陽寮の連中だって言いなりだ。あんたのことだって、気付かれるよ。……早く!」
 見る間にどかどかと足音が近づいてくる。数は多い。
 ぬえの叫びに背中を押され、団三郎は身を低くして駆けだした。庭へ飛び出した直後、眼を覚ましていた馬番の一人が呻いて身を起こし、団三郎を見て居たぞここだと大声を上げた。たちまち、六波羅に武装した郎党達が溢れかえる。
 みるみるうちに数十を超える郎党達に取り囲まれ、団三郎は逃げ場を失っていた。
「――く……ッ」
 あっという間に窮地だ。己の不甲斐なさを噛み締め、せめて少しでも蹴散らそうと懐に手を入れる団三郎だが――押し寄せてきた郎党達は、団三郎を見て眼を見開いた。
「な、なんだ貴様!? 止まれ! そこに直れ!」
「ばけもの……くそ、ばけものだ!」
 彼等の驚きぶりに一瞬戸惑った団三郎だが、黙って隙を見逃す理屈はない。すぐにその動揺をついて包囲網を突破する。
 同時、するりと自分の腕から正体不明の種が抜け落ちたのを感じて団三郎は悟る。
 ぬえが、自分を逃がそうとしたのだと。
「くそ……くそ、こんな……ッ」
 思わず悪罵が口をついた。大口をたたいて助けに来ておいて、当のぬえに助けられおめおめと逃げ帰るなど――不甲斐なさが、憤りが、溶岩のように団三郎の全身を駆け巡った。
「止まれ! おい、止まれ、止まらぬか!」
 六波羅の中を走る団三郎を見咎めて、誰何の声と共に押し寄せた男達が行く手を塞ぐ。彼等の懐へと飛び込んだ団三郎は、その顔に楡の葉息吹を吹き付けて隙を作ると、男達を得物ごと跳ね飛ばして、地面に叩き伏せ、なお矢のように走った。
 追いすがる者達を力任せに殴り倒し、投げ飛ばし、叩き伏せて、ひたすらに走る。
「――どかんか!」
 六波羅の門を、警備を固める衛士ごと弾き飛ばし。駆けつけてきた騎馬武者を五条大橋から鴨川に叩きこんで。
 団三郎は、ひたすらに奔った。己のうちの悔恨と共に。

 

 

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