二 藤原の娘


 左京五条七町下ル。半分に欠けた月が顔を覗かせたみやこの通りを、甲冑の擦れる物々しい警備の音が響く。具足に太刀を帯び、松明を手にした郎党たちが統制の取れた動きで走り回っていた。それを馬上から指揮するのは弓を携えた武士の姿である。忙しく報告を繰り返しながら辻を巡り、通りを行く彼等の間には酷く張りつめた空気が漂っている。
「異常ないか」
「はい」
 率いる配下――己の抱える郎党達からの報告を受け、頼政は頷いた。彼の姿は馬上にあった。跨る黒柔毛の馬は篝火の夜の中も怯える様子なく、具足姿の頼政に手綱を預けている。
 近頃では、古くよりみやこの警備の任にあった検非違使に変わり、院や帝の私兵として組織された武士団が洛内の守りを固めることが常とされていた。頼政の率いる渡辺党は摂津国渡辺港に勢力基盤を持つ武力集団であり、白河院の時代に滝口武士として宮中の警護を任されて以来、その役目を連綿と務め、平安京の安寧を保つ一助となっていた。
 頼政の摂津源氏は大江山に巣食う鬼を退治した源頼光以来の名門として、彼等を率いる立場にある。従五位下に叙せられたといえども源氏の武士。弓馬の道を志すのであるからには、具足を身に付け、郎党を率いて警護に当たるのは常であった。
 巡回を終え戻って来た郎党達が、頼政の前に馬を進める。
「渡辺連源太、同じく与右馬允、戻りました」
「こちらも異常ありません。数名、辻をうろつく怪しいものを捕えましたが流民の類でした」
「そうか。……引き続き警戒を続けろ。気を抜かぬ様にな」
「はっ」
 頼政の号令一下、戻ってきた郎党達が控え番と交代し、再び巡回に散ってゆく。
 常の倍の人数を動員し、連夜の警備を続けているのには訳がある。
 この一月ばかり、洛内では不審火が頻発していた。火の気のない場所に突如として炎が燃え上がり、警備の衛士たちが駆け付ける頃には跡形もなく消えているという、実に不可解なものだった。幸い、まだ市街への被害は起きていないが、その火のあやしきことに人々は恐れ、不安は高まる一方である。
 しかもこの不審火が一度や二度で済まぬとなれば、不穏な空気はますます濃くなるばかり。いつ大火となってみやこを焼き焦がすのではないかとの流言まで起こる始末だ。もはや衛士には手に負えぬと判断され、頼政ら北面の武士にも動員の命が下されたのである。
(此度の不審火、院のお耳にも届いていると聞く)
 この時代、何よりも人々は火を恐れた。荒ぶる天候、降り注ぐ天災に、祈るほかは抗う術を持たなかった時代であるが、土地よりの収穫を無に帰す嵐、都市の基盤を叩き壊す地震、神意ともされた雷とも違って、火災というものは唯一、人の手によっても起こすことのできる災害だからである。
 雨の続かぬ季節、風の強い日を選び、あとはわずかな火種さえあれば、都市をまるごと焼き滅ぼすことも不可能ではない。陰陽術の叡智を結集して気脈霊脈を整え、盤石の備えをもって築かれた平安京であってもその例外ではなかった。たとえ千年の繁栄を約束されようとも、人々が集まり、その住処が集まるみやこであるからこそ、燃え拡がる炎はそれらを容易く飲み込み灰塵と帰す。
 ゆえにこそ、不審火騒ぎはひどくみやこの人々を悩ませているのだった。
「厄介なものだ。これだけ多くの者を率いてなお、まるで足りぬか」
「このみやこは、実に広うございますからな」
 頼政の隣で、精悍な顔つきの郎党が応える。渡辺授薩摩兵衛は、同省播磨次郎と共に渡辺党の主力であり、頼政とは幼い頃から共に育ち、誰よりも信頼する腹心であった。
「授、どう見る」
「さて。……確かにみやこには良からぬ策を巡らせ、殺しても足らぬほどに憎む相手をお持ちの方は多くいらっしゃいましょうが……果たして、このみやこを燃やし尽くしても構わぬと思われる方が、どれほどいるものやら」
 授の言葉に頼政も頷く。不審火の火元には公家の邸宅も多く見られ、だからこそその目的は、事故を装った政敵の暗殺ではないかと言う説が主流であった。頼政にはそれを前提としたような命令が下り、必然的に警護は巡回よりも大内裏周辺の、貴族の邸宅を中心として動かねばならなくなっていた。
 しかし、そのような策謀を巡らせる者が、ひとたび起これば止めることのできぬ火災を手段として用いるのは、どうにも短慮が過ぎるのではないかと思えてならない。本来ならばさらに巡回の範囲を広げて洛内全体を見回るべきなのだが――鳥羽院の私兵と言う滝口武士の性格上、それを逸脱することはできないのだ。
「賊を追うにも縄張り争い。ままならぬものですな、頼政様」
「……追うべき場所が分かっているだけ良しとするさ」
 桓武帝の御世、朱雀大路を中心に、碁盤の目のように美しく築かれた平安京も、長き時を経て歪みを見せていた。東西の繁栄は大きく西に傾き、いまは左京(帝のおはす宮から見て、東を右、西を左と区別する)がその中心である。反対の右京は寂れ、没落した貴族の屋敷が苔生し、管理を離れた大路が区画ごと放棄され、草木の生え放題となっていることも少なくない。西南の桂川のあたりでは、本来みやこには作ってはならぬはずの畑地にされている区画もあるほどだ。
 内裏にある貴き人々にとってみれば、洛内といえど荒れ朽ちた右京などみやこの外の事であるやもしれぬ。だが、それははたして正しきことであろうか。
(考えても詮無きことか)
 頼政は浮かび上がる疑念を苦い顔で飲み込み、額の皺を深くするばかりだ。生やしたばかりの髭を擦って、己に活を入れ、気を引き締め直す。
 その隣で授も吐息していた。彼もまた、酒呑童子を討ち滅ぼした辟邪の武、摂津渡辺党の生え抜きである。今の日々には辟易しているのかもしれなかった。
「お主も不服か、授」
「……いえ、申し訳ありません。出過ぎたことを申しました。みやこを脅かす賊を捕えるのは、我等のお役目であると承知しております」
「言うな。こんな場で繕う必要もないだろう」
 居るとも知れぬ賊を追いかけ回して地に塗れ、這い回ることは、果たして武士の名誉と言えるのだろうか。頼政はその業前に並ぶもの無しと讃えられる弓の腕を持っていたが、若くから一心不乱に弓馬の道に打ち込んだのは、盗賊や火付けを捕える為ではない。
 朝廷に背く夷敵を討ち、世を乱すあやしきばけものに相対し、戦場にて己の武勇を高らかに名乗り上げて、正々堂々戦って見事勝利をおさめる。そうしてこそまことの勲は打ち立てることができるのであろうし、それは今も変わらぬ武士の望みである。
 しかし今はどうだ。こうして公家に院に後ろ盾を求め、その走狗とならねば戦支度にも事欠く始末。西も東も四道は制圧され、帝に逆らう夷敵などとうに討ち滅ぼされてしまった。武士たちが戦い、勝ち抜き、その勇名を打ち立てる相手など、どこにいるのと言うのだろうか。
 頼政らの摂津源氏とても、ただ諾々とみやこの治安維持を全うするだけでは郎党達を養う事はできず、ゆえに貴族としての出世を考えねばならぬ。こと、みやこに置いて官位というものはあればあるだけ事欠かない。何をするにもこれがなくては始まらぬと言う有様で、宮中の有象無象は、身に付けた服と官位を持って相手を断じるものだ。
 そんな彼等の言いなりとなり、走狗のごとく、卑俗な盗賊を追い回す日々。これが今の世の武士の在り方なのか。
(いや、よそう)
 それ以上を考えることは不遜だと、頼政は首を振る。
(……過ぎた考えだ。俺達の望みは、盤石なるみやこの安寧なのだ。違うか)
 その事に不満は無い。
 無い、はずだ。
 澱む思考を振り払おうと、頼政はもう一度首を振った。
「しかし、仲綱にも困ったものだな」
 夕刻、具足に身を包んで出仕しようとする頼政に、自分も連れて行ってくれと押しかけた息子のことだ。仲綱は一人前に新品の具足を着込み、頼政らに付いてみやこの警備に当たろうとしたのだった。
「意欲があるのはいいが、危なっかしくて仕方がない。……男子というものは皆あんなものか?」
「お尋ねにならずともお分かりでしょう。私に答えさせるのは少々、卑怯ではありませんかな」
 授に視線で問い返され、頼政は決まり悪く咳払いをした。それを見、授は目を糸のようにして微笑む。
「……少しでも、殿のお力になりたいとのお考えゆえの勇み足ですよ」
「俺は、子供たちにあまりこのような働きをさせたいとは思わぬのだがな。矛盾していると分かってはいるが」
 元服を迎えたばかりだというのに、仲綱はいつも頼政にできることはないかと訴えてくる。あの年頃の子どもは、少しでも早く一人前になりたいと背伸びをするものだが――やはり仲綱もまた、武名を求める源氏の血筋なのであろう。
 そうして頼政の脳裏をよぎるのは、坂東へ下った義朝のことだ。みやこに留まっている頼政にも、あの若武者の坂東での活躍は漏れ聞こえてきた。
 かつての縁に寄って千葉氏の庇護を得た義朝は、いまや上総御曹司の名でその名を知られる坂東屈指の実力者へと成長していた。窮屈な畿内を飛び出してわずか数年、大庭、三浦、下総などの大豪族とも親交を結び、広大な坂東を駆け廻り、勢力争いや土地を巡っての紛争に首を突っ込んでは存分に若い情熱を振るっている。
 彼が言葉通り、己の居場所を見出したことは、素直に嬉しく思うし、また羨ましい。
 そうして生きることは、きっと自分には出来ぬと分かっているからこそ。頼政はそう思うのを止められなかった。

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 十一月にしては生温い風の中に思いを悩ませていたからか。いつしか刻限は夜更けとなり、欠けた月が天頂へと辿り着いていた。
 息急き切って駆け付けた郎党の連が、頼政のもとに左京三条七町、西洞院にて火の手ありの報せをもたらしたのはその時である。
 頼政はただちに授以下の郎党を率い、号令一過馬を北へと走らせた。馬の蹄が群れをなしてみやこの大路を北上する中、あたりにはきな臭い匂いが立ち込めはじめる。
「頼政様! あれを!」
 先行していた郎党の一隊が指し示した先に異常を認め、頼政は目を見開いた。先刻まで火の気すら感じなかった三条の辻に、煌々と燃え上がる火柱が立ち上っていたのだ。半月の空に登る煙は火花と、紅い火の粉を伴い、ごうごうとみやこの辻を照らし出していた。
 一目で尋常な炎ではない事が見て取れた。赫々と燃え盛る炎は、まるで生きているかのように身をくねらせ、灼熱の輝きをもって天を焦がす。夜を照らす炎はまるで、天高く聳える山が火を噴くかのごときである。
 ごう、と一際大きく炎が輝いた。思わず閉じた瞼の隙間から火焔の輝きが入り込む。その凄まじきこと、これほど離れていても目の奥がじんと痛むほどだ。先を走っていた郎党達がたまらず手綱を絞り、急停止をさせられた馬のいななきが夜に響く。
「こ、これは」
「面妖な……」
 豪の者で知られる渡辺党の武士たちですら、思わず足を止め、息を呑むほどの異様であった。まだ火柱の根元の辻まで距離もあるというのに、彼らは一様に立ち昇る炎の姿に気圧され、遠巻きに見守っている。
「狼狽えるな!」
 躊躇する郎党達の元に駆け寄り、頼政は鋭く声をあげて檄を飛ばす。
「我等の務めを忘れたか! ――行くぞ!」
 威圧されていた郎党達は、主の叱咤ですぐに冷静さを取り戻した。滝口武士の役割とは、まさに異変の場と主犯を押さえることである。火柱と共に噴き上がる黒煙をものともせず、馬の脚を早めてまっすぐに火柱の元へと向かう頼政に、授、省が続いた。
 すぐに他の者たちも後を追う。
 しかし、奇妙なことはさらに続いた。天を焦がさんばかりに猛っていた火柱は、頼政達が辻を曲がる寸前で中程から弾けるようにその形を崩し、ぱたりと消えうせたのである。
 頼政達が西洞院に辿り着いた時、すでにその場には燃える炎の輝きはなく、薄暗く焦げた炭がわずかな煙を上げるのみ。
 初めから、火の気などなかったかのように辺りは静まり返っていた。
「こ、これは……一体……」
 駆け付けてきた郎党達は呆然とその場に立ち尽くす。授の発したつぶやきが、皆の心を代弁していた。
 あれだけの炎だ、なにも燃えるものがなく火が尽きるとは思えない。わずかでも風があれば、大火となってみやこの半分を焼き焦がしてもおかしくないほどの火勢であった。瞼の裏に焼き付いた炎の輝きを確かめるように数度瞬きをして、頼政は注意深く周囲を窺う。
「ここは……三条中納言殿の屋敷、か?」
 辺りはおおよそ寂れ、酷く荒れ果てた一帯だった。かつて村上帝の御世に一条摂政と覇を競った三条中納言、藤原朝成の住まいとして知られる三条西洞院は、いまや打ち捨てられて荒れるばかりとなっている。政争に敗れた彼がみやこを追放され、百年以上もの時が過ぎてなお、怨敵を呪う朝成の悪霊が出るなどと噂され、流民の類も近付かない場所であった。
 荒れ果てた壁や伸び放題の雑草。頼政は朽ちた屋敷の残骸を窺うが、そこには炎どころか、燻る煙も、わずかな火の気すらも見えぬ。ただ、崩れた土壁と荒れた地面が拡がるのみだ。
 先刻の火柱の名残などどこにも見当たらない。
「頼政様、……これは、如何なることでしょうな……? あれは、幻だったのでしょうか」
「授、省、お前達も見たのだろう?」
「己の目を疑う訳ではありませんが、しかし……」
 二人はいまだ信じられぬとばかりに首を捻る。頼政も同じ思いであった。
 いかなる奇妙か。頼政の供をしていた者達を含め、巡回していた多くの郎党達は先程の猛る火柱を目にしている。これが一人二人ならば気の迷いと片付けることもできようが、皆が同じ幻を見るなど有り得るのだろうか?
「……念のためだ、あたりを探れ」
 洛内に明らかな異常を認め、このまま何もせぬでいる訳にもいかない。困惑しながらも頼政の下した指示に従い、集まっていた郎党達が走り出す。
 とは言え、手勢を率いた騎馬の一団が押し寄せたのだ。余程の馬鹿でなければ早々にここから立ち去っていることだろう。犯人を見つけることは困難だろうと、頼政は考えていた。
 そばに残した授に言いつけ、頼政はその場で馬を降りる。
「俺も様子を見てこよう。授、お前はここらを見張っていろ」
「頼政様、お待ちください!」
 案じる声を背中に聞きながら、頼政は崩れた土壁の隙間を覗き込んだ。瞬きを繰り返して夜目を効かせ、月明かりの中で慎重に地面を検める。
「……これは」
 辻の端に小さな紙片が落ちていた。ちょうど何かのまじないのように、人型に切り抜かれた紙が、半ばほどで焦げ、破られたように風に揺れている。
 思わず伸ばした指の先で、紙片は突如小さな炎をあげてぼうと燃え尽きる。白い灰になって崩れて消える紙片を見て、頼政はごくりと息を呑んだ。
 間違いない。ここで先程まで、燃えていた炎は現実のものだ。
 あのわずかな間で、天を衝くまでに高く燃え盛り、一瞬で消えうせる――。一体、いかなる炎であればあのような振る舞いを可能とするのか。地獄にて亡者を焼くという黄泉の炎か、はたまた、富士の山を焦がすという火口の焔か。
 その時だ。頼政は咄嗟に身を翻し、腰に挟んだ短刀を引き抜いて背後へ向かって鋭く投じた。
「――誰だ!」
 誰何の声と同時、授も事態を察し、頼政の脇に素早く駆け寄る。郎党から弦を張った弓を受け取って、頼政はじっと暗闇に目を凝らした。
 すると、驚くべきことが起きた。地に突き立った短刀の柄が突如として炎を上げて燃えだしたのである。脂を含む杉の枝が燃えるように、燃え上がる炎の中から、ゆらりと人影が姿を現した。
 燃える炎に揺らめく影は、壺装束に市女傘。旅姿の女性のものである。いくらか日に褪せ、汚れてはいるが、美しい仕立てから高貴な姫君の纏うものと見えた。
 背は小さく、まだほんの童女と言って良い年頃だろう。とは言え、いかな姿をしていようともこのような場所にいる事自体が怪しげなのは間違いがない。
「誰ぞ、止まれ!」
 短刀を構えた授が再度の警告を飛ばす。頼政は箙より征矢の鏑(鏃先が尖っていない、打突用の矢)を引き抜き、いつでも射れるように弓を握った。
「……ふん。篁め、自慢の人払いの符だなんていいやがって、書き損じが混ざってたじゃないか。お陰で余計な面倒まで拾いこむ羽目になった」
 しかし、市女傘は躊躇う様子もなく近づいてくる。ぼそぼそと訳の分らぬことを呟く娘の様子に、頼政は困惑を隠せない。
(先程の炎、こやつか?)
 白拍子かなにかだろうか――そんな思いが頼政の頭をかすめるが、それにしては雰囲気がおかしい。とはいえ、まだ童といっていい娘にいきなり弓を向けるのも躊躇われ、頼政は警戒を解かぬままじっと娘に狙いを定める。
「娘、動くな!」
 だん、と飛び出したのは授である。頼政の意図を素早く汲み取って、短刀は腰に戻して素手で娘に掴みかかる。
 しかし、娘を捕えて地面に組み伏せんとした授の身体は、そのまま宙を舞っていた。如何なる技か、娘の細腕は倍ほども大きな授の体躯を捕え、地面へと叩きつけたのだ。
 がくんと白眼を剥く授を見て、頼政はその身を案じるよりも早く、鋭く弓を引き絞り、立て続けに矢を放っていた。
 恐るべき速さで、三条の矢が射られる。いずれも射抜くことを目的としない鉄鏑の引目矢ではあるが、三人張りの弓で射られれば骨も腱も砕かれるに十分な威力をもつ。その狙いは娘の左右の足と手。
 夜闇の中、灯りと言えば僅かな松明と月灯りだけという状況で、頼政の矢は狙い過たず十間先の娘の手足を確実に捉えき、小さな身体を大きく弾き飛ばした。
「授!」
 さらに矢を番え、娘から視線を離さぬままに郎党の名を呼ぶ。返事は無い。どうやら意識を失っているだけらしいと理解し、頼政はじりじりと娘の方へ距離を詰めてゆく。
 だがその時だ。倒れていた娘の市女傘がぴくりと動いた。そのまま、何事もなかったかのように立ち上がるではないか。
「……ひどい事をするな。私じゃなきゃ死んでいたぞ、いまの。そっちから突っかかってきたんだろうに、一方的に撃ちやがって」
 信じられぬ思いで頼政は眼を瞬かせた。間違いなく手足を撃ち抜いたはずだ。関節を砕いたか、少なくとも、痛みでまともに起き上がる事などできないはずなのに。娘はすんすんと鼻を動かして、小さく舌打ちをする。
「……? 様子がおかしいな。それにこの匂い。……ひょっとしてお前ら、あいつらの仲間ってことじゃないのか」
 幼い、澄んだ声だった。だがその声音、どこか年相応な童らしさを感じさせぬ。年経たように振舞っているとも思えない、妙な落ち着きがあった。
「何の事だ」
「わからないならわからないでいいさ。こっちの話だから。……それより今の弓。ひょっとしてあんたが摂津源氏の頼政か?」
 急に名を呼ばれ、頼政はわずかに返答を躊躇った。しかし、今は少しでも時を稼ぐべきであった。散っている郎党達がそのうち戻ってくる。そうなればこの娘を捕えることができるだろう。そう判断し、頼政は静かに首肯する。
「……いかにも、俺が頼政だ」
 市女笠の下、娘の口元がふと緩んだ。探し人を訪ね当てたことへの安堵ではない。諦めを感じさせるような、意地の悪い笑みだ。娘の浮かべた表情が気に入らず、頼政はわずかに苛立つ。
「お主はどこの娘か。見たところ、いずこかの家のものと思うが、かような夜更けに出歩くとは」
 夜のみやこならずとも、公家の娘が一人で外を出歩くなど考えられぬ。しかし、目の前の娘の所作は庶民のものとは思えぬほど、美しく洗練されていた。そして今の身のこなし、およそまともな出自とは思えない。
 恐らくはあまり表沙汰に出来ぬ理由で、人気のない郊外に匿われている、いずこかの愛妾であろうか。そう頼政が考えを巡らせていたあたりで、ふいに娘がくすくすと笑い声を漏らした。
「名前……そうだな、そう言えば、久しくそんなもの、聞かれていなかったな」
 可笑しくてたまらないというように、袖で口元を覆い、背中を丸めながら。娘は静かに名乗る。
「藤原紅子。藤原朝臣紅子娘」
「な……」
 古風な名乗りであった。頼政が故事に通じていなければ、意味が分からぬまま聞き逃していたかもしれぬ。みやこにあって古くより権勢を誇り、絶大なる影響力をもつ摂関家の名である。
 とてもこのような場を歩きまわる娘に相応しいとは思えなかった。
「……藤原朝臣の姫と申されるか。そのようなお方が供もつけず、夜更けに一人このよう場所を歩かれるとは信じられませぬが」
 流民の分際で藤原一門を騙るなど、不遜を通り越して無謀である。とはいえ藤原の姓は無視するにはあまりにも大きな存在であった。風体に反してまともな受け答えの出来ることから、この娘はそれなりに確りとした出自のものであるとも思われ、一矢で射殺すことは躊躇われた。慎重に狙いを絞りながら、頼政は再度問う。
「そうだな、信じぬのも道理かもしれない」
 少女は喉の奥で笑うようにしてするりと市女笠を取った。長い髪がばさりと揺れ、雲間から落ちた月明かりが娘の顔を照らす。
「――なんと……」
 頼政は今度こそ声を失っていた。笠の下から現れたのは、足元に届かんばかりに垂れ下がる長く美しい髪。しかもその色は、降り積む新雪のごとき真白である。
 白子は頼政も見た事はある。母の胎の中に色を置き忘れた彼等は、一様に枯れ木の様な身体をし、弱々しく、一人で陽の下も歩けぬほどに病がちなものばかりである。かように美しい娘に生まれるなど、聞いたこともない。
 それに見たところ、娘の手足は宮中に囲われ歌を読む日々を送るほどに艶めかしくはなく、たおやかな強さを感じさせた。野山を歩き、武も嗜んで鍛えこまれている様子も見える。
「信じるか、信じないかはお前に任せるよ」
 紅子という名乗り同様の、紅い瞳が頼政を見る。まだ幼子であるはずの彼女の視線は藤原の姓に相応しい威厳と圧迫感を備え、まるで射留めたように頼政の動きを封じてしまう。
 頬を流れ落ちる冷汗を感じながら、頼政は上顎にへばりついた舌を無理矢理に引き剥がした。
「……では、あなたのお言葉が真実であるとして、あなた様はどなたの御子でありましょうか。左府頼長様か、それとも関白忠通様か」
 藤の姓の圧倒的な存在感を前に、自然と、頼政の態度も改まったものとなっていた。それがおかしいのか、娘はくくくと笑い声を漏らす。
「……ああ、おかしいったらないな。あんな小僧どもが私の親か。でも、そうだな。仕方ない事か。あの夜の望月を見上げたのも、数えてみれば随分と昔だ。お前には分からないか。
 教えてやるよ。我が父は車持皇子――藤原不比等だ。聞いたことくらいあるだろう」
 頼政は耳を疑った。
 聞いたことがあるも何も、かの人物は、今より五百年も昔に生きた藤原家の祖ではないか。
(やはりこの娘、気が触れているのか)
 あるいは、藤原の一門に連なるというのは間違いではないのかもしれないが、おそらく父と呼ぶ相手を誰かと混同しているに違いない。
 だが、先程の炎と無関係でないとするなら、他にも誰か潜んでおるのかもしれぬ。そうでなくとも、あの焔について何かを知っているかもしれない。まともな受け答えも出来ぬ様子だが、それでも不審な姿を見せるようなら容赦なく射殺さねばならぬと心に決める。
「その、貴きおかたの姫君が、如何なる理由にてここに居られるのです。まさか、時を超えてきたとは申しますまい」
「時を? ははは、もっと悪い手段さ。もっと単純で、もっと醜悪だよ。
 ――私はね、死なない。……死ねないんだ」
 そう、戯言のように口にして。自嘲のように口元を歪め、娘は天に浮かぶ月を振り仰いだ。
 半分欠けた月に目を細め、ぎりと唇を噛み締める。
「お前も知っておくといい。己の家を憂うのであれば、藤原の家に関わるのはやめておくべきだ。あれは皇の大樹に絡み付く藤の蔓。己一人では立てぬ脆弱ないきものだ。蜜に魅かれた者達を残らず絡め取り、食らい尽くす。命が惜しくば近寄らぬようにするといい」
「これは、……車持皇子のお子の言葉とは思えませんな」
「身内だからこそさ。互いの尾を蛇のように食い合う奴らのあさましい姿を飽きるくらい見続けてきた。お前たち源氏も元をたどれば皇の系譜。藤に囚われ朽ちてゆくのを見るのは忍びない。お前自身はそれを覚悟の上かもしれないけれど、あたら若い者達までそれに巻き込むのはやめておくことだね。忠告だよ」
 義朝の事を言っているのだと、頼政には分かった。
 一介の、気狂いの少女が知れるような情報ではなかった。やはりこの娘、ただものではない。頼政は改めて右手を背に回し、箙の矢を手に娘に鋭く問いかける。
「お主は何者だ、なぜそのようなことを――」
「知れたこと。見てきたからさ。この五百と余年、ずっとこのみやこをね」
 それを待たず頼政は矢を射ていた。今度は鏑のない征矢、穂先鋭い柳葉である。腿を射抜かれ、娘の身体が吹き飛ぶ。
 が、またも彼女は意に介さず、その場にむくりと起き上がった。深手をものともせず、腿に刺さった矢を引き抜いて放り投げる。
「っち、あんまり酷いことするなよ。いくら治るからって好き放題しやがって。間違えた分くらいは大目に見てやってんだぞ」
「……く……」
「ついでだからお前にも忠告してやる。お前が慕うあの女は、藤原の家よりもおぞましきばけものだぞ。早晩、お前を切り捨てる。腸を食い破られる前に、早々と手を切るといい」
「なんだと……?」
「惚けても無駄だ。お前の飼い主のことだよ、頼政。あいつは狐だ」
「狐……」
 その言葉には、心当たりがある。
 いまのみやこは複雑怪奇な勢力が相争う陰謀と策謀のるつぼである。帝や摂関家すらその地位を危うくされ、確かなものなど何一つない。だからこそ、力無き者達は庇護者を求め、卓越した政治手腕をもつ勢力の傘下に加わることを強いられた。多くの武士たちが貴族や帝、摂関家に近づく中――頼政は後鳥羽上皇の寵愛深き愛姫、藤原得子を後ろ盾としていたのである。
 天皇の寵愛を受ける姫は、その子、女房らを中心とした派閥に強い権力をもつ。得子は藤原摂関家中御門流の鳥羽院の寵臣、藤原家成の従兄妹でもあることから、摂津源氏がその勢力の寄る辺とするのに十分であり、頼政が摂関家とは独立した勢力として距離を置くに都合が良かったのである。
 この藤原の娘がそれを言っているのは明白であった。しかし、狐とはいったいどのような意味か――困惑を深める頼政が、それを問いただそうとした刹那。
「――頼政様! どちらに居られますか!」
 辻から彼を呼ぶ郎党達の声が上がる。連、与達があたりをひと巡りして戻って来たのだろう。
「そろそろ頃合いか。……せいぜい、食い殺されないように気をつけるんだな」
「待――」
 たんと地面を蹴って、大きく後ろに飛び退る娘。飛び出しかけた頼政の前で娘の身体が闇の奥に消えてゆく。
 そして同時に、ぼうと炎が弾けた。
 突如、篝火の如く宙空に炎が現れたのである。燃え盛った篝火が、みるみる膨らみ、ごうごうと天に向かって伸び始める。燃えるものなどないと言うのに、盛る炎はいかな大火よりもなお熱く、灼熱に輝いて、頼政と、駆け付けてきた郎党達の目を焼いた。
 まるで日輪――否、地より噴き上がる富士の炎。なお煙を吐き続ける、永劫の山の焔。藤原紅子を名乗る娘の身体を中心に、闇が駆逐されていった。
 いかなる奇跡か、魔なる技か。娘の身体を藁のように焦がすはずの炎は、しかし娘の身体を取り巻き、大きく姿を変える。それはまるで、鳳凰がその翼を広げるかのよう――
(灰か)
 唐突に頼政は思い至る。あの娘の髪は、白でも銀でもない。あまりの業火に焼きつくされ、わずかに残った灰なのだ。絶えぬ炎に身を纏う、富士の娘。それが彼女なのだ。
 炎は見る間に火柱となり、高くみやこの空を焦がした。
 ごうと一際大きく炎が弾ける。盛る炎に顔を炙られ、頼政が思わず顔を庇った刹那。現れた時と同じ唐突さで火柱は消失し、娘の姿もまたどこへともなく消え去っていた。
 瞼を通して焦がしていた輝きは失せ、かわりに、ぞっとするほどの暗闇があたりを押し包んだ。我に返った郎党達が頼政の元に走り寄ってくる。
「頼政様、ご無事ですか!」
「……ああ、大丈夫だ。怪我はない。あそこで授が目を回している。誰か、手当を頼む」
 言い残して、頼政は娘の居た場所へと近付いた。まだ熱気の残る辺りには、白くなって燃え尽きた木があった。節くれ立った太い枝は、管理を離れたこの屋敷に生えていたものだったであろうか。手を伸ばせば、頼政の手が触れたか触れぬかのところで、木はざらりと灰となって崩れ落ちた。
 いかなる凄まじき火力があれば、生木がこのように燃え尽きるのだろう。
 郎党達は慌て、娘を追おうとしていたが、もはやその姿を辺りに見つけることはできなかった。尋常の手段では追えぬ方法で、どこかへと去ったのだろう。頼政はそう確信する。
 まだ瞼の裏に焔の輝きが焼き付いているようで、駆け寄って来た者の顔すら判然としない。闇に慣れていた目は、娘の起こした炎の明るさによって失われ、辻の薄暗がりはわずかな月明かりでは見通せぬのだ。
(いや、これがいまの平安京の闇なのか)
 あるいは――それまで頼政自身が知らず身を浸していた、みやこの暗闇の深さを、今の娘の炎が思い出させてしまったのかもしれぬ。
 炎が落ち着いた時にはもはや、娘の姿はなく――ちりちりと焦げる灰が、天の月を目指すように夜闇の中へと消えてゆくのみであった。


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