応保二年(一一六二年)――
ふたつの乱を乗り越え、六波羅の栄えは日の昇るごとくこの世の盛りとなり、いまやみやこは平家一門の隆盛を讃える声ばかりが満ちている。
清盛はついに正三位権中納言へと至り、検非違使別当や皇太后宮権大夫を兼任。もはや押しも押されもせぬ宮中の重鎮にまで登り詰めていた。嫡男の重盛も二十五歳の若さで既に正四位下の内蔵頭。その弟の宗盛、知盛に至っては十代半ばで頼政の従五位上に並ぶ勢いである。
二条帝もことに清盛を強く頼みにされていた。平治の乱でそのお命を清盛に守られて以来、かの帝は清盛に全幅の信頼を置き、清盛もまた乳父の立場から二条帝の後見役として活躍を続けていた。また六波羅の主は摂関家とも婚姻により太い関係を保ち、蓮華王院の建立などを通して後白河院や寺社への気配りも忘れない。
六波羅には数百を超える屋敷が立ち並び、その隆盛にあやからんとする人々が詰めかける。平家は軍事貴族の中より頭一つ抜け出し、さらなる高みを駆け昇らんとしていた。
そんな中、気付けば頼政は今年で齢六十。いまや平氏全盛のみやこに、ただ一人残った源氏の長老という立場にある。
「……すっかり老いぼれたものだ、俺も」
この十年でみやこは大きく様変わりした。院、帝、摂関家、源氏、平氏。多くの者たちが歴史の表舞台から姿を消し、そしてそれに代わる新たな者達がこの国の権勢を握ろうとしている。
長年に渡って宮中の政を左右し、頼政の後ろ盾であり続けた美福門院もまた、去ること一昨年の十一月、平治の乱の終結を見届けるかのように命を落としていた。
そんな中、頼政はふとした折に己の衰えを自覚することが増えていた。節くれ立った指にも皺が刻まれ、髪に混じる白髪は量を増し、いまやその髪は灰色に近い。
六十という年齢で、既に出家や引退を考えてもおかしくない頼政が、いまだ嫡子への承継を済ませず棟梁に留まり続けているのは、この平氏全盛のみやこのなかで摂津源氏が生き抜くための方策であった。
息子達の器量、働きに不満はない。平治の乱に前後して頼政は伊豆に知行国を得、仲綱ら兄弟はその代行としてみやこと坂東を行き来する生活を送っている。あくまで表向きの役目は頼政のものだが、摂津源氏の実務は半分以上彼の息子たちが担っていたと言って良い。
しかしそれでも、いまだ宮中との人脈や歌壇での評価は父に及ばず、複雑怪奇なみやこの権力闘争の中で、摂津源氏一門の重責はこの老将の双肩にかかっていたのである。
幾多の別れに追憶の中で想いを馳せ、頼政は吐息する。敵と味方が激しく入れ替わる困難な政局の中、様々な危難を乗り越え、一門を栄えさせ続ける彼の名は、周囲からも一目置かれる存在となっていた。
(平家、源氏……そして俺はどうだ)
頼政は思う。己が機を見るに敏であったわけではない。かつての過ちを胸に、ただ他の者たちの姿を見て行いを改め続けたに他ならない。要は人一倍臆病であったと、それだけのことだ。
しかしみやこを去っていった者たちのことを思うたび、源氏の同胞を捨て、ただ一人生き残り続ける自分に、頼政はどこか後ろ暗い思いを抱かずにはいられない。
そして、春も終わりとなる五月のはじめ。
あのおぞましき夜の鳴き声が、再び頼政を苛むこととなったのである。
「頼政様! 兵庫頭様!」
まだ夜も明けきらぬうちからの騒ぎであった。
近衛河原の屋敷にまろぶように駆け込んできた郎党は、床でまどろんでいた頼政を叩き起こさんばかりの大声で、みやこに再びあやしき怪鳥が現れたという報せをもたらしたのである。
「……それは、まことか」
――鵺、再び現る。
その報告を聞いた頼政の驚きようは並のものではなかった。支度もそこそこに急ぎ宮中に向かい、頼政は直ちにそれを見たという弁官のもとを訪れる。
昨夜より床に伏せったままという彼を叩き起こし、問いただしてみるものの、怯えるばかりの彼の言葉はまるで言葉を成しておらず、支離滅裂であった。それでもどうにか宥め落ち着かせ、漏れ聞こえる独白めいた証言を繋ぎ合せてみると、それはまったく怪しげで不可思議なものであった。
昨日のことであったという。まだ宵の頃にあって、突如として東三条の空より黒雲が湧き起こり、月星を覆い隠してあたりから光を奪った。同時にどっと生温い風が押し寄せ、燭や篝火を残らず吹き消してしまった。そして訪れた暗闇の中、清涼殿の方角から、忘れもしないあの怪しげな鳴き声が響いたのだというのである。
この不気味な鳴き声は宮中だけに留まらず、承明門を越えみやこの各所にまであまねく響き渡った。貴族の邸宅や人々の行き来する辻、果ては洛外にまで、聞くも恐ろしき鳴き声にあてられ、正気を失くすものたちが続出したという。この騒ぎに警護にあたっていた北面の武士が直ちに集結したが、黒雲の中に姿を隠すばけものにはまったく手出しができなかった。
「頼政様……!」
「うむ」
ともあれ、一刻を争う事態であった。頼政は直ちに滝口武士、兵庫頭としての指揮のもと授、省らに命じて渡辺党の郎党を招集。平氏の郎党とも協力して即日、洛内外の警護を強化させた。巡回の兵は常の三倍。まるで戦のような有様である。
彼らは物々しい武装を露わにみやこの各所に散っていった。
しかし、それを嘲笑うかのようにその夜も、不気味な鳴き声は続いたのである。この日も黒雲の中にその姿は見えず、怪しき声のみが夜空にこだました。その恐ろしき事すさまじく、ひとたび雲が揺れ、風が押し寄せれば、屈強な武士がばたばたと気を失い倒れるほどであったという。心を奮い立たせ、黒雲渦巻く空にめがけ矢を放つ者もいたが、それらのことごとくは地へと投げ返され、いたずらに犠牲を増やすばかりだった。
この怪しき声は、みやこ中に響き渡り、人々はかつての怪異を思い出して恐怖した。
鵺だ。
鵺が、再び現れた。
かつて頼政が紫宸殿で射殺した正体不明の怪鳥が、怨念を凝らせ黄泉還り、再び姿を見せたのだという。
その噂を裏付けるがごとく、恐ろしき鳴き声は、それから連夜に渡って続いた。
夜ごと丑寅の鬼門より現れる瘴気の黒雲に乗り、時折混じる雷鳴とともにひゅおうひゅおうと恐ろしき鳴き声が空に響けば、人々は家に閉じこもり、怯えて眠れぬ夜を過ごした。二条帝もまたこの声を酷く恐ろしくお思いになり、ついにはお伏せりになってしまう。
十年を経て再び現れた鵺の鳴き声は、みやこを恐怖のるつぼへと叩き込んだのである。
(これは、いかなることか……)
頼政の困惑は深かった。
全ての状況は十年前と酷似しており、またまるで違っていた。あの時あったばけもの退治はすべて雅頼の――あるいはその黒幕の仕組んだ茶番であったはずである。あの場にばけものなどは存在せず、頼政が演じたのもあくまで形だけ。殺されたのは哀れな娘ひとりであるはずだった。
しかし。いままさに、その時のばけものが再び現れ、かつて射殺された呪詛を叫びながらみやこを荒らし回っているのだ。
とても信じられぬ思いであったが、頼政自身もみやこの警護に回る中で郎党達と共にこの鳴き声を聞いた。とても虎鶫の声などとは思えぬ、恐ろしき、おぞましき、哀しき鳴き声。たった一声で盤石なるみやこを揺るがし、心の臓を掴まれるかのごとき恐怖を叩きこむ鳴き声は、まことこの世のものとは思えぬ恐ろしきもの。
ついに頼政も今のみやこに現れた「何か」の実在を感じざるを得なかったのである。
第一に疑ったのは、十年前と同じように、いずこかの公卿らが同じ企みをしているのではないかということだ。しかしその線は非常に薄いものだった。頼政は事の次第を問い正すためさりげなく雅頼に連絡を取ったが、若くして蔵人頭となっていた村上源氏の俊才は、酷く困惑した応答をするばかりであった。
直接会って真意をただしたものの、雅頼に何かを隠しているような素振りは見えなかった。あえて関係者に事実を伏せ、二度目の茶番に信憑性を持たせようとすることは有り得ないではないだろうが、何も知らぬ武士にならともかく、十年前にその当事者となっていた頼政にいまさら隠し事をする意味がない。
となれば、雅頼らではない他の公卿による画策であるが、これもまた現実的ではない。いかに深謀に通じ策略に長けた者たちであろうと、かつての怪異退治の関係者全員に秘密を隠し通して謀を行うのは不可能であろうし、なによりもいまの宮中には十年前にはなかった清盛という強大な勢力が存在する。
であるのなら――必然的に、これは誰も預かり知らぬこととなってしまう。
つまりは、現れたばけものは偽りではない、本物の怪異であるという事だ。
(そのようなこと、あり得るのか。……あれはまことのばけものだというのか)
いずこかより忍びこんだ賊がばけものを騙っているという推論も不可能ではないが、この怪鳥は連日連夜、宮中深き清涼殿の屋根の上にまで現れるのである。みやこの空を駆け廻るというような芸当、まっとうな人間には起こせる業ではないことは明らかだった。
(……まさか、な)
ちらと頼政の脳裏をよぎるのは、あの不思議な娘、藤原紅子のことだ。もう二十年以上も前の事になるというのに、まるで昨日のように思い出せる。確かに奇妙な力をもった娘であったが、しかし、この騒ぎの主が彼女であるとは、どうにも思えなかった。
無論、この間頼政達もただ手をこまねいていたわけではない。北面武士たちは毎夜、このばけものを撃退すべく出撃を繰り返したが、いくら弓を唸らせ矢を雨と射掛けんとも、黒雲の中の怪しき影にはまるで当たる気配を見せなかった。
かの〝指御子〟安倍泰親が陣頭に立ち、陰陽寮の者たちも全力を尽くして奔走しているが、いかなる不思議か、かれらの用いる破邪辟邪の術もこの怪鳥には一切の効き目を持たぬという。
泰親の言葉によればそれも道理であり、かのばけものがかつての鵺であるならば、それは正体を持たぬあやしきものである。古今、呪詛の類は全てその相手を見定めねば効果を顕わさぬものだ。猪を捕える罠が、空を飛ぶ鳥に効くはずがないのと同じように、正体を見定めることのできぬばけものの名を捕えて殺すことはできぬというのだった。
「ええい、どうにかならんのか! このままみやこをばけものの成すがままにさせるなぞ、渡辺党の名折れぞ!」
「しかし、姿も見えぬ、射ても当たらぬとなれば、我等にはどうしようもありませぬ! 殿の上から空を駆けて組討てともおっしゃるのか」
「……構わぬだろう、一矢で当たらぬなら千の矢を射るのだ。渡辺党百人をもって矢の尽きるまで射かければいいではないか!」
「落ち着け。空に向けて射た矢が外れ、どこに落ちるのか考えてみよ。既に流れ矢で多くの被害が出ておるのだぞ。この上ばけものを仕留められる保証もなく、いたずらに被害を広げてはそれこそ我等の無能を示すも同じだ。名誉も何もあったものではないだろう」
「だが……!」
論議の場は、膿んだ様な熱に満ちていた。源頼光以来の辟邪の武、摂津渡辺党の猛者たちが毎日頭を突き合わせ、どうにか対策を講じようとしているが、いかにも手詰まりだ。空論する議論に時間は無駄に費やされ、また、夜が来る。
あの恐ろしき、鵺が来るのだ。
二条帝がお伏せりになり、みやこの各所で吹き荒れる瘴気の黒雲のその被害は甚大な数へとなりつつあった。二度の乱を平定した平家も清盛も、この鵺には何ら対処の方法を見出せず、陰陽寮すら手を焼く有様。
そうしてついに、摂津源氏棟梁、兵庫頭源頼政に、再び鵺討伐の勅命が下ったのである。
「奴は、……俺を、殺しに来たのかもしれんな」
十年前の過ちの報い。虚構で塗り固めた己を、かつての自分が滅ぼしに来た。頼政にはそう思えてならなかった。これは報いだ。ありもしない鵺退治の名声をもって、ふたつの乱をのうのうと生き抜いた自分への裁きなのかもしれない。
「……父上? どうかされましたか……?」
「いや、なんでもない。……摂津源氏源頼政、謹んでお受けいたします」
息子達が案じる中、頼政は帝の使者より勅をおしいただく。
かくて。遥としてその全容も掴めぬまま、頼政は再び鵺退治の舞台へと引きずり出されたのであった。
◆ ◆ ◆
五月も下旬の二十日。
清涼殿の東庭、呉竹や河竹の林が囲む庭に、摂津源氏の長、源頼政の姿はあった。
十年前は立ち入ることを許されなかった清涼殿は、四方に廂を持つ荘厳な檜皮葺の大屋殿である。帝がお住まいになって寝起きする御座、東庭に面した廂はその中でも最も大きく、傾いた陽の中に美しい陰を浮かばせている。
日の落ち始めた庭に、あの時と同じように頼政は二矢をもって望む。その隣には十年前と同じように猪早太の姿があった。
「まさかあのばけものが再び現れるとは! 二度と化けて出られぬよう、今度は百千に刻んでくれる! ――腕が鳴りますな、頼政様!」
これもまた、かつての鵺退治に倣っての人選であった。
勅命が下った時から、主の一大事のため授や省はすぐさま頼政の守りをかって出、遠く伊豆からは事態を聞きつけた仲綱が急ぎ戻ると使いを寄越した。
頼政もまた、今回ばかりは渡辺党の助力を求めるつもりだった。しかし宮中では『かつての鵺退治の英雄たち』の名を挙げる声があまりにも多く、二条帝もまた頼政と早太の二人を頼みにされたため、清涼殿への立ち入りを許されたのはこの二人だけだったのである。
「気負い過ぎるな、早太」
「大丈夫です! 今日こそ俺の実力、お見せいたします!」
実際のところ、前回のような茶番ではない本物のばけもの退治には、彼よりも相応しい者がいくらでもいた。より正確に言うならば、早太よりも役に立たないものを探す方が難しかった。
そんな頼政の胸中を知らぬまま、早太は頼もしげに胸を張ってみせる。恐らく彼の胸の中にも、十年前の追憶があるだろう。頼政のように苦々しいものではなく、誇るべき栄光として。
既に早太は二十七。とうに少年とは言えぬ歳になった。渡辺党の郎党として幾度も戦場に出はしたものの、いまだろくに戦功も上げられぬままにいる。
しかし、早太はそれを恥とも思わない。それどころか、自分は鵺退治という偉業を果たした男なのだぞと、事あるごとに威丈高に振る舞った。
実力も伴わぬのに、態度ばかり大きな彼は、当然仲間達からも嫌われていた。しかし早太には、それらの諫言もみな嫉妬と映るのである。早太の胸に燦然と輝くのは、頼政に従って、帝を恐れさせるばけものを討ちとったあの瞬間である。その勝利は十年が過ぎてもなお色褪せることもなく、彼の誇りとなっていた。
言い換えるならば、彼が拠り所にし、唯一誇れるものがあの鵺退治の武功なのだ。
早太は戦場での作法を、人との戦の術をまともに学ぼうとしなかった。なぜならば早太にとって己は既に英雄であり、戦場で些細な武功を求めて躍起になる必要がなかったからだ。無論そんなざまでまともに戦果を上げることができるはずもなく、彼は十年過ぎてもなお出世もままならぬほどであった。
が、早太はそれも意に介さない。そのような瑣末なことに拘るなど、英雄の自分には相応しくないとまで言ってのけた。
もはや猪早太の武名は、鵺を退治することでしか保てない。彼にとって、十年ぶりに現れた鵺は、普段蔑ろにされる己の実力を示すこの上ない機会であったのだ。いるのかいないのかも定かではないばけものを狩ることでしか保てぬ武功など、存在しないも同じだというのに。
愛刀『骨食』を振りかざし、全身に力をみなぎらせる早太。その力の入り様に、事情を知らぬ公卿たちは実に頼もしい猛者だと褒めそやす。それがますます早太を増長させるのである。
(……あの日、からか)
すべて、あの夜の出来事がこの若者の人生を狂わせてしまった。
早太のような男は、何があっても鵺退治に連れてゆくべきではなかったのだ。
あのまま、訳の分らぬ陰謀に巻き込まれなどせず、普通の戦に身を投じ、そこで運良く生き延びれば。あるいは為朝のように……あそこまでとは行かなくとも、いかなる逆境にも心挫くことなく、力強く味方を鼓舞し勇ましく戦う武士へと育ったかもしれない。単純で頭が回らぬとて、多くの友を得、仲間として共に戦う男になったかもしれない。
だが。早太は、若くして恐ろしきばけもの『鵺』を――人の手にはとても及ばぬ怪異を討ってしまった。その自信は呪詛のように彼の心に深く染み込み、鎖のように早太の功名心を縛る。もはや何度失敗をしたところで、早太は己の栄光に疑念を抱くことはないだろう。
いまのはたまたま巡り合わせ悪く油断しただけだ。何しろ己は、あのばけもの、人智も及ばぬ怪物、鵺を退治した英雄なのだから――
思えば早太も、鵺の犠牲者であるのかもしれぬ。頼政はそれを不憫に思った。
(いや――違うな。俺のせいだ。ばけものの所為などではない)
いつのまにか、自分ですら、あのばけものが本当にいたような心持ちになっている。頼政は髭の下でわずかに苦笑する。
それも無理はないのかもしれない。設えられた舞台の全てはまるで、十年前と酷似している。違うことと言えば、ここが帝のおはす清涼殿であるということと、この場に満ちる恐ろしいまでの緊張。そして、全てを画策した黒幕の、張り巡らされた陰謀の存在だ。
近衛帝の御世には損得、利害によって張り巡らされた策略と同じ悪意が、今度はその核を失ったまま再現されようとしている。
「……頼政様、いよいよ陽が暮れます! さあっ、出てくるがいい、鵺め! この早太が来た以上、もはや貴様の好きにはさせんぞ!」
(さて……どうなる。……何が出てくる)
逸る早太を隣に、頼政は一人黙考する。
清涼殿のすぐ傍には、昇殿を許された平氏子飼いの郎党達が警護を固めていた。授、省ら渡辺党は、大内裏の外、みやこの門の近くで待機中である。万が一、頼政が鵺を取り逃がすようなことがあれば、直ちに彼等が駆け付け、合流する手はずである。
「すでに宮中に限らず、洛内外にまで被害が出ております。まして二匹目が現れたとなれば、三匹目、四匹目がいてもおかしくありませぬ。万一、他のばけものが姿を見せた時にみやこを守るものが必要となりましょう」
早太と二人の鵺退治に臨む前、頼政はそう言って郎党の動員を訴えた。
公卿たちはかつての鵺退治の再現を期待している。説得するには苦しい理屈だと考えていた頼政だが、意外にもあっさりとその提案は受け入れられたのである。清涼殿を守る衛士の数は倍に増やされ、渡辺党の配置も完了していた。
武士にあるまじき弱音と謗られることも覚悟していたのだが――やはりこの騒動は、誰かの画策によるものではないということなのだろうか。
頼政の手には以前と同じく、愛用の重藤弓がある。しかし箙に収めた矢は団三郎の尖り矢とは違う、ただの平根矢であった。鵺の再出現に際し、頼政は団三郎に使いを出して今一度、魔祓いの尖り矢を求めたのだが――生憎と、彼女は今佐渡へ渡っており、連絡を取ることはできなかった。十年前に渡された魔祓いの加護あらたかな矢は、十年という歳月によってすっかり色褪せ、まともに使えるものではなくなっていたのである。
言い知れぬ胸騒ぎを覚えながらも――頼政が篝火の中、弓を握りしめたその時だ。
空に、物悲しげな鳴き声が響いた。
そして突如、生温い風が吹き抜けたかと思うと、その場にいる者たちすべての心に言葉に尽くせぬ怖気が湧き起こる。いかなる不思議か、あやかしの力か。獲物を前に獣が吐き付ける空腹の吐息、あるいは背筋をじとりと濡らす夜半の予兆であった。
ごうごうと空がうねり、風が荒び、黒雲が空を覆う。
たちまち湧き起こった黒雲の中、月は隠れ、ごろごろと唸る雷光があたりを照らした。稲光が闇の中に清涼殿の屋根を浮かび上がらせる。
「こ、これは……」
居合わせた弁官たちが驚きの声を上げた。あの時と同じ光景――しかし、十年前と同じ顔触れはほとんど見当たらない。彼等にしてみれば初めての、恐怖の象徴、鵺との遭遇であろう。
「来た、来た、来たぞぉ!」
早太が叫ぶ。見開いた眼にははっきりと、喜悦があった。彼にとってまさに千載一遇の、鵺退治の機会が巡って来たのである。二度の鵺退治をもって、猪早太の名は天下に轟く名声となるのである。
黒雲の中をふたたび雷鳴が走る。どろどろとうねる黒雲の唸りに混じり響くのは、ひゅおうひゅおおうと高い不気味な鳴き声。虎鶫に良く似て、しかし遥かにおぞましい。胸の奥に冷たい指を押し込まれたような恐怖に、頼政は思わず呻きを漏らす。
一際大きく雷鳴が響く。清涼殿のすぐま上で輝いた稲光の中、頼政ははっきりと見た。あの日、あの娘がしがみ付いていたのとそっくり同じ場所、殿の屋根上に、四つ足になってしがみ付くばけものの姿を。
「むうっ……」
思わずうなり声をあげ、頼政は眼を見開く。
「な――なんじゃあれは!」
周囲で驚愕の声が上がる。ほとんど悲鳴と言って良かった。何度となく戦場となったみやこの衛士達をも震え上がらせるその異貌――。
それはかつて鵺退治の驚きとはまるで質を異にしたものであった。ありえない現実、目を覚ましたまま悪夢に出くわしたような、理解できぬもの、許容できぬものへ対する嫌悪であった。
事実この時までは、ここに集められた者達も、本心では鵺退治と言う名目には半信半疑だったに違いない。
頼政もそれは同じだった。戦場という混沌の中で、心を震わせる熱狂に手綱を取り、冷静な打算をもって命のやり取りをする武士である。日常的に命のやり取りの場に身を置いているからこそ、人を害するものはまた人であることを、誰よりもよく知っていた。
この頼政の鵺退治は勅命によるものであったが、その上でなお本当にそんなばけものがいるのかと、疑っている者たちが大半だっただろう。
実際、それは十年前の怪異の折に、頼政が皆に言い聞かせたことでもあった。
だが――居た。
ばけものは、そこにいたのだ。
強風によって篝火が煽られ、くねくねと衛士達の影がうねる。
その中でひときわ大きな影があった。闇に包まれた清涼殿の檜屋根の上。黒雲のごとき霞みを纏い、はっきりと見定めることも難しい靄の向こうに、恐ろしき姿が張り付いていた。
頭は猿。
手足は虎。
身体は狢。
尾は蛇。
――そして鳴き声は虎鶫。
四肢から頭、胴から尾に至るまで、ちぐはぐに獣の身体を継ぎ合わせたおぞましき異様な姿。そのばけものは、誰も見たことがない歪で恐ろしい姿をしていた。
「あ、あれを、あれを見よ! ば、ばけもの、ばけものじゃ!」
誰かが叫ぶ。狂乱はすぐさま波紋のように辺りに広がり、宮中を覆い尽くさんばかりに伝播する。追い打ちをかけるように雷鳴がとどろき、鵺のひょおおぅという恐ろしい鳴き声がそれに拍車をかけた。
吹き荒れる嵐のように恐慌が巻き起こる。居合わせた公卿たち、そして警護の衛士達までもが、ただちに正気を失い、先を争って逃げ出したのだ。鵺の恐ろしき姿にあてられ、また立ち込める深い瘴気は人々の心を容易く侵し、恐怖と不安を植え付けた。
清涼殿は混乱のるつぼと化した。本来警護に当たるべき衛士達の中には、身動きもできぬままその場に倒れ伏す者まで出る始末。頼政は動かず、弁官たちは逃げ惑う公卿たちの中で右往左往するばかり。北の夜御殿、弘徽殿からは、鵺の鳴き声にあてられた女たちの悲鳴までもこだまする。
同時に、駆け付けてきた者達がある。平家の郎党達だった。公卿の誰かが平家に通じ、手引きしていたのだろう。あわよくば、頼政の手柄を横取りしようとしたのかもしれぬ。
彼らは勇ましく人垣を組み、清涼殿の東庭へと踊り出る。
――ひゅぉおおおおおおおうぅ!
うねる闇のように定まらぬ姿を纏ったばけものは、喉を膨らませて高く鳴いた。
耳を塞ぎたくなるような音に。ごうと黒い風が吹き寄せる。胃の腑を腐らせるような瘴気を纏った風に、たちまち郎党たちの垣根が吹き飛ばされる。
ぱあっと地を蹴ったばけものは、その巨体からは想像も出来ぬほどの身軽さで宙を舞い、南廂より隣の殿屋根へと飛び移る。身を震わせ、鵺が一声を上げると天よりさらなる黒雲が巻き起こり、突風が篝火を吹き飛ばした。
「ぬぅ……ッ」
頼政は鋭く矢を番え、ばけものに向けて放たんとした。
しかしばけものはそれより早く、闇の中に身を翻す。不気味な声がもう一度響き渡ると、空には一層分厚い黒雲が立ち込めた。
どっと流れ込んでくる深い闇――人ならぬ者の世界と化した内裏で、惨劇が響く。
悲鳴が起きた。隣殿へ駆けだしていた弁官の胸から上が消えうせたのだ。太い爪に抉られて頭を失った骸は、ふらふらと数歩を歩いて欄干を乗り越え、地面に落ちた。
その隣では悲鳴を上げて逃げ出した侍従が地面に叩き伏せられて羽虫のように潰され、血糊となって殿を汚す。小さな頭蓋が卵のように割れ、中身をぶちまけた。
「っ、ひぃぁぁあああああああ!?」
ぞぶり。深々と腹を抉られ、仰け反った胴から腸を引きずり出されては、郎党の一人が闇の中に引きずられてゆく。何かを噛み千切り砕くおぞましい咀嚼音が響き渡る。足元に転がってきた丸い塊に頼政が思わず目を向ければ、それは中身の入った兜だった。
それでも流石は歴戦の郎党たちだ。狼狽を振り切り、怒号を上げて己を奮い立たせては、太刀を抜いて次々に怪物に飛びかかる。多勢をもってばけものを押しつぶさんとする気概だが、はたして鵺がその身を一振りすると、十人がかりの囲みは蜘蛛の子のように散らされた。
なんとおぞましき姿か。ばけものの背よりは、左右で形の違う赤と青の翼が生え、別々に郎党達を跳ね飛ばしたのである。赤は甲殻類の爪鎌、青は鱗に包まれた蛇。異形の翼が振るわれるたび、血がしぶき、悲鳴が上がる。
瘴気の黒雲がうごめき、怖気をふるう鳴き声が響く。びしゃりと、撒き散らされた肉片が帝の御座所を穢す。倒れた篝火が燃え上がり、ぱちぱちと火花と煙を上げていた。煙に焙られて噎せ返るような血煙が立ち込め、宮中の混乱はなお加速する。
「ぬ、鵺だ……!」
誰かが叫ぶ。
鵺が出た。再び鵺が出た。この十年において膨らんだ恐怖が、形をとって現れたのだ。かつてみやこを荒らし、帝を脅かした正体不明のばけもの――それがかつての恨みを抱え、復讐に訪れたのだと。黒雲に撒かれ、一間先も見通せぬ闇の中でその畏れはさらに膨らむ。
「く……!」
ごきり、ばちゃりとおぞましい音が響くたび、ねとりと噎せ返らんばかりの血臭が増す。吹き荒れる惨劇の中、頼政は懸命に歯を噛み締め、怖気を堪えて弓を構える。肚に込めた気合と共に弓を射るが、その矢は怪物の体にわだかまる黒闇に飲まれて消え失せた。
そこへ鋭い鵺の鳴き声が飛んだ。再び風が吹き付ける。どろどろと雷を纏う吼え声が、黒雲よりいかずちを呼び寄せる。轟く雷鳴が頼政の耳を激しく打った。顔をしかめ、なおも震える脚を叱咤し、目を見開く頼政。
「おのれ、おのれ鵺め、なんという狼藉か!」
しかし。頼政よりもその隣で憤りを膨らませていた者がいた。頭から湯気を噴かんばかりに顔を赤くした猪早太だ。青年は爆発するように走り出す。
「小癪なばけものめが、もう好きにはさせん!」
「早太、待て!」
「我こそは兵庫頭源頼政様、第一の郎党、猪早太! この『骨食』の名にかけ、今ここで再び貴様を打ち滅ぼしてくれん! ばけもの、覚悟しろっ!」
大それた名乗りを上げ、早太は太刀を放り捨てる。懐に大事に挟んでいた短刀を構えて、鵺に躍りかかった。大猿の遠吠えのような雄叫びが、清涼殿を激しく揺るがす。
「ォおおおおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
体躯に恵まれた早太の突進は、まるで大岩が転がるようだ。金剛石ですらま二つにせんばかりの気合いと刃筋で、短刀が振るわれる。
しかし、早太が振りかぶった刃は怪物まで届くことなく、空しく地面を掠る。
「……ォ、……ぁ?」
からん、と早太の手から短刀がこぼれおちた。
一瞬の黒風と共に、青年の顔と右腕には黒々とした無数の矢が突き立っていたのである。信じられない顔で、己の右の眼窩から頸をつらぬいた矢を見下ろし、早太は血を吐いた。
「お、おのれ、ばけ、もの、……矢とは、ひきょう、な」
目玉が鏃に抉られ、眼窩からずるりとはみ出す。裂けた頬からだらだらと血と涎をこぼしながら、早太はなおもよろよろと、鵺に向けて歩み寄ろうとした。おそらく錯乱していたのだろう。早太は残る左腕で首筋に刺さった矢を無理やりに引き抜こうとする。頼政が制止する暇もなく、鏃の返しで喉笛を千切り、男の首から鮮血が迸った。
「あ、が」
ぐるんと、片方だけ残った眼球を白目を剥いてその場に事切れる――鵺退治の英雄、猪早太。
同時。怪物を覆う黒雲の中に、赤黒いきらめきがいくつもいくつも浮かび上がる。それはまたたく間に鏃の姿を取り、早太の全身を串刺しにする。
いかなる怪奇であろうか。このばけもののひと声は、どこからともなく無数の鏃を呼び寄せ、雨霰と放つことができるらしかった。
地に塗れた早太の顔面を虎の前足で踏み潰し、鵺はひときわ高い声で鳴く。再び無数の矢が現れ、地上へと降り注ぐ。豪雨のごとき呪矢の群れが、凄まじい勢いでその場の者達を貫き、無差別に射殺してゆく。
「ひ…ィッ……!?」
誰ひとり、その場にとどまろうとする者はいなかった。
頼政は弓を射ることができず、供の早太は斃れた。もはや鵺に敵う相手はこの場に居らぬ。惨劇の最中に放り込まれ、郎党達の士気もすでに瓦解していた。
我先にと逃げ出すもの、狂乱のままに矢を射るもの、錯乱して斬りかかるもの。
平家生え抜きの郎党達が、恐怖に支配されていた。誰にも先駆けて先陣を切り、一番手柄を取ることを常とし、死と隣り合わせに合戦を繰り返す屈強なる猛者達が、だ。
いくら俊敏、強靭であろうとも、相手がただの獣であれば、十分に距離を取って郎党で囲み、次々に矢を射かければやがては弱り殺せるであろう。しかし、このばけものにはいくら矢を射てもまるで通じぬ。次々と矢を射かけても、それらはまるで当たってすらおらぬかのように、ばけものの身体を滑り、外れ、素通りしてしまう。
さらに恐ろしいことには、このばけもの、どういう理屈か矢を使うのだ。
鵺のひと吠えと共に数十、数百にも及ぶ矢が顕れ、鋭く空を裂いて無差別に辺りを薙ぎ払う。その様はまるで一軍を相手にしたかのようですらあった。一匹で百の矢を放つばけものと、弓を手にそれを取り囲む百の兵。同じだけの弓が同時に放たれ、倒れ伏すのは兵ばかりである。
郎党達は俊敏に駆け回る獣一匹を過たず狙い撃たねばならないのに対し、獣の側は身動きも満足にとれぬ兵のどこかに矢が当たれば良い理屈なのだから、当たり前だ。
黒風が吹き荒ぶたび、虎の四肢が薙ぎ払われ、郎党達の兜が五つも六つもまとめて飛ぶ。降り注ぐ剛弓に射抜かれ、百舌鳥の早贄のごとく男達が地面に縫い止められた。臓腑を貫き損ねられた若い武士が、鼻と口から血をこぼしながら呻いている。手足の太い部分を射抜かれたものたちは、血が全て抜けるまで動けず、緩慢に死んでゆく。
丸太のような虎の手足が振るわれるたび、六尺余りの屈強な武士たちがぺしゃんと潰れ、五穴から血を吹いてどうと倒れる。牙を剥きだして吼える猿の頭が兜をやすやすと噛み砕き、延びた蛇の尻尾が締め付ける。
ひゅおうひゅおおおうと清涼殿の屋根を揺らす不気味な鳴き声と共に、黒い影は空を舞う。腕を貫かれ、腹を穿たれ、屈強な兵たちが無残な姿で転がった。
殿の屋根から屋根へ、黒雲を巻き起こしながら飛び移る姿は、ああ、まさに。
頭は猿、身体は狢、手足は虎、尾は蛇、その鳴き声は虎鶫。見るもおぞましき、継ぎ接ぎだらけの恐ろしきばけもの。
哄笑のように高らかに鳴き叫び、鵺はみやこの夜を蹂躙してゆく。
帝のおわす、この国で最も貴き場所は、血と穢れに満ちた惨劇の場へと変わりつつあった。
吹き荒ぶ殺戮の中、頼政はただひとり、弓弦を引き絞ったまま、動けずにいた。
内裏を蹂躙し、殺戮をまき散らし、喝采するように吠えて飛び跳ねる鵺。頼政は鏃の先にそのばけものを見据えて、何度も首を振り、瞬きを繰り返した。
「……俺は、夢を見ているのか」
乾いた声が、老将の喉を震わせる。
それを掻き消すようにばけものが吠えた。もはやその鳴き声は屈強な武士たちをひと吠えで脅えさせ、心を凍り付かせるに等しい。身を揺すった鵺の周囲で、郎党達の身体が千切れ飛ぶ。
――否。
それは、違う。
引き絞った弓、鏃の先に頼政が見るのは、無傷のまま気を失ってばたばたと倒れていく人々たちの姿。手足が千切れ、胴がま二つなどとんでもない。地面に転がる者たちの身体には、細かな傷しか付いていない。
(惨劇など、ない。――まやかしなのだ)
理屈は分からぬ。だが、この場にいる者たちには皆、恐ろしいばけものが暴れ、次々に人々を殺す恐ろしい光景が見えているのだろう。
しかし。
魂を震わせ、正気を失わせるようなその声は、頼政の耳には確かに、人の言葉となって聞こえていた。
小さく高い、泣き叫ぶような疳気を孕んだ娘の声である。
「なんでだよ!」
彼女もそれに気付いているのだろう。
むずがるように暴れ、地面を踏み鳴らし、鵺は頼政に叫ぶ。
「なんでだ! なんでだよ! どうしてお前には、わたしが見えてるんだよ!!」
――何ぞ。この身は、何ぞ。
頭は猿、手足は虎、尾は蛇、身体は狢。
否。そんなばけものは、ここにはいない。ただ、慟哭し、泣き喚く、幼い娘がいるだけだ。
十年前に――頼政が殺した。
皆が恐れ、逃げまどう妖怪は。
あの時と同じ、幼い娘の姿をして、頼政の目に映っていた。
「どうして、お前なんかに、お前なんかにわたしが見えるんだっ!!」
正体を見破られた事は、このばけものにとって一番の恐れであるらしかった。憎悪を籠めた視線で鋭く頼政を睨みつけ、激しい鳴き声をぶつけてくる。しかしそれは呪詛を込めた赤黒い鏃のかたちを取ることもなく、頼政はただ、大声に顔をしかめるのみ。
娘の振るう手足には、虎のごとき屈強さはなく。
喉笛を噛み千切らんと立てられる牙も、肌に血を滲ませる程度。その正体を看破した頼政に、彼女はただ、無力であった。
「畏れ、だ」
頼政はつぶやく。
鵺。十年前に居たことにされたばけものは、独り歩きした噂のまま、眼にした人々の最も恐ろしい姿を取って現れた。帝を害し、みやこの夜を揺るがした恐るべきばけもの。その噂が最も恐れる姿をとって、この場に現れたのだ。
けれど、十年前の陰謀を知る頼政にはそんなものを恐れる理由はない。彼が恐れるとするなら、それは、つまらぬ人間の理屈で、妖怪へ仕立てあげてしまった、あの哀れな娘への悔恨だ。
誰あろう。みやこの中で最も、頼政が恐れを抱いていたのは、あの夜の鵺退治の真実の姿。
この幼い娘の姿であったのだ。
なんという皮肉だろうか。鵺の、正体を失わせるまやかしに守られた真の姿、無力で哀れな娘の姿であるという、彼女にとって一番隠しておきたい秘密こそ。頼政が何よりも恐れていたものだったのだ。
拳を握りしめ、殺意をもって睨む娘とたった二人、御座所の庭で対峙して。
長い長い沈黙の後、頼政は絞り出すように喉を震わせる。
「……すまぬ」
「謝るなっ!!」
娘の黒衣の背中突き破って、色鮮やかな翼が飛び出した。甲殻類の手足や、うねる蛇を思わせる、いびつでおぞましいそれは、はたして羽と呼べるものだろうか? ――幼い娘の顔手足とはあまりにも似つかわしくない、不気味な異形。それは彼女がすでに、人ではない何かになり果ててしまったことの証である。
「わたしは、お前が殺した娘なんかじゃない! 妖怪だ! ばけものだ! お前たちが鵺と呼ぶ、怪物なんだぞ!」
頭は猿、手足は虎、尾は蛇、身体は狢。
継ぎ接ぎの恐怖を纏い、正体不明を彩る姿を装って、ぬえどりの鳴くように、彼女は叫ぶ。
哀しき声だと頼政は思った。
そしてすぐに首を振る。彼女をあのような姿に変えてしまったのは己なのだと。
「わたしに同情なんかするな! いま、いま謝るならっ、……どうして、どうしてお前は、あの時、わたしを殺したんだっ!」
(――すまぬ)
ばけものも、人のように泣くのだなと場違いな事を考えながら。
頼政は静かに一矢を手にとって、弓を構える。
同時に娘も身を震わせた。一際濃い黒雲を呼び寄せて、少女の姿をその奥に隠す。
さらに空には先程に数倍する赤黒い鏃が現れた。
あれは己の弓矢だと、頼政は直感していた。双武矢竹、山鳥の尾羽の四立羽。腸抉の狩矢。
あの日あの時、あの娘を射た己の弓に、寸分の狂いもない。
狙いを外し、彼女に死の恐怖を味あわせた、恨窮の弓。
涙を浮かべ、きっと頼政を睨み、娘が叫んだ。赤黒い鏃がぎらり煌めいて嵐のように押し寄せる。降り注ぐ呪矢の数はまるで雨礫のごとく、頼政を包み撃った。空を裂いて呪詛をまき散らし、瘴気を溢れさせてあたり一帯に突き刺さる赤黒い鏃の中、頼政はじっと足を止めて彼女に相向かい、鋭く弓弦を引き絞る。
「…………!」
鋭い鏃の先に、ただしっかと娘を見据え、頼政は力強く引き絞った矢を放つ。
無言の気迫が成した業か。
かつて名無しのばけものを射た矢が、一矢にてあたりに満ちる黒雲を吹き散らし――その奥より少女の姿を暴きだす。
鏃に腕をかすめられ、声を上げた少女の胸に。
返す頼政の二矢が、深々と突き立っていた。